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これからの計画論の条件(続1)危機的状況への対応:「世直し」松陰 vs「立て直し」尊徳

「これからの計画論の条件」の続編として、現在のなんとなく騒然とした、とらえ方によっては「危機的な状況」への対応について考えてみました。
モデルとするのは、幕末の二宮尊徳と吉田松陰です。ネタは中井久夫の「分裂病と人類」(1982年)で、その読書メモです。(カッコ内が私のコメント)

執着気質的職業倫理とは
 うつ病を発生しやすい性格として、「執着気質」「メランコリー型」があり、その特徴はほとんどすべてが仕事の進め方、仕事へのかかわり、職場での対人関係にかんする記述であるという。「熱中、勤勉、几帳面」など、倫理的道徳的用語で語られ、こうした執着気質にマッチする職業倫理、生活道徳はいまなおわれわれに巨大な強制力をもっている。執着気質者を倫理的に高く評価しない社会もある。「下士官道徳」にすぎないとする伝統的なイギリス人など。
執着気質的職業倫理の登場
 執着気質的職業倫理が我が国に登場するのは江戸中期以降、18世紀後半といわれている。近世民衆道徳の研究者安丸良夫によれば、こうした倫理(彼が「通俗道徳」とよぶもの)は江戸中期の農村の様相を一変させるだけの力を持ったという。飲酒・ばくちの禁止、踊り・芝居・三味線などの制限、婚礼・葬式・節句の簡素化、夜遊びの制限、髪飾り・傘・下駄・羽織などの制限、勤労の強調などに関心が払われるようになる。近世以前の農村に存在した楽しみ:祭り、踊り、芝居、よばいなども次第に禁止されて、代わって禁欲、勤勉、倹約、孝行、忍従、正直、早起き、粗食などが美徳として、なすべきこととして受容されるようになる。いまなお我々はこの徳目に縛られている。二宮尊徳はこの種の職業倫理の最大の実践運動家でありイデオローグであった。
二宮尊徳 
 二宮尊徳(1787-1856)は偉大な「再建屋」であった。窮乏した村落の立て直しを依頼されて、一定期間租税免除の荒地の開墾と商品作物の栽培によって収益の増大をはかった。かれはその村の過去100年にわたる諸種の記録を参考にして(データをもとにして!)、村落再建の「仕法」を作製した。(江戸時代における、世界的にも例外的な民衆の識字率、計算能力、記録能力がこの「計算可能性」を可能にした。)データにもとづく将来におよぶ農業生産と収支の予測が、農民、村役人、藩当局に強い説得力を持ちえた。いったん二宮の「仕法」が承認されれば、藩主の私生活さえ経済的拘束をうけるものであるから、なおさらそうであった。(土光敏夫さんの東芝再建のように。)
地域おこしのプランナーとしての尊徳
 二宮は問題があるとそれを放棄することなく、重荷を一身に引き受け、ちいさな努力と工夫をひたすら積み上げて対処した。(まさにトヨタのカイゼンのように。)彼は決して焦ることなく(うつ病にならずに)、またできない仕事は幕命であっても断る相対的な独立の自由を持っていた。彼は、村の支配者ではなくあくまでも村の合意のもとに「仕法」を指導する一種の技術者として現れた。村の6割以上の支持がなければ引き受けなかった。自分の名が忘れられ、村民たちが自分たちの力で村を立て直した、と感じるようになった時、仕法ははじめて成ったのであるということを言っている。(現在の地域おこしのプランナーの理想像ではないだろうか。)
「建設」ではなく「再建」の倫理
 執着気質的職業倫理は、本質的に「建設の倫理」ではなく「再建の倫理」であった。18世紀後半において貨幣経済の浸透と集中的な天災によって我が国の農村の相当数が荒廃し、収穫・人口の半減、耕作放棄、流亡が起こったとき、あえて離村せず踏みとどまった中農・小地主階層のなかからこの職業倫理は発生し、二宮の「立て直し」が求められた。こうした農地の変化は大局的に見れば農村の構造改革と農業技術の革新がおよそ1世紀をかけて、畿内から東北にむけて波及していったという事態であるが、当事者にとっては進歩ではなく危機であり、そこからの「立て直し」の問題であった。
反復して再開する
 二宮自身かつて祖父の代の成功を取り戻した時に、「再建」できた時に、自家の立て直しが成ったと認めた。ほっておけば雑草が生え、橋は朽ち、溝は埋まる。こまごまとうるさく世話をやき続けてこそはじめて「人道」が立つという認識のうえにたつ倫理は、じっさいの大破局が発生したときは、それが社会的変化であってもほとんど天災のごとく受け取り、反復強迫のように、再び同一の倫理にしたがった問題解決の努力を、すなわち「再建」を開始するものである。
 じっさい農民たちは江戸時代に営々として作り上げた換金作物ー棉・麻・菜種・櫨・藍などが開国によって安価な外国製品のために壊滅したとき、黙々としてあらたな換金作物栽培に向けての努力を反復再開しただけである。その努力の成果である絹糸の輸出が大戦前の乏しい外貨獲得を支えた。
 農民だけでなく、この倫理に従った日本の技術者たちもまた、敗戦によって他の人のような深刻なアイデンティティの混乱を起こさずに、軍艦のかわりにタンカーをつくった。(スバル360は中島飛行機の高度な技術なくしては不可能であり*、零戦のエンジン技術者が戦後のTOTOの高品質の礎を築き、二式戦鍾馗を設計した糸川秀夫が戦後のロケット開発をリードした。戦後の「復興」はまさに、日本人の執着気質的職業倫理によって、あくまでも「再建」のエートスにおいて支えられた。)
*スバル360のモノコックボディは380kg/台で、それを設計・工作できるチームは世界中でも当時中島飛行機のチームがいた富士重工だけであった。
破局への無関心
 二宮尊徳は当時世情を騒がせていた海防問題には全く動かされなかった。水戸藩士が、藩全体で危機感をつのらせて、領内の寺鐘を大砲に改鋳しつつあることを告げた時、「そのような砲にて戦える相手ならば相手が現れてからでも遅くはなく、戦えぬ相手ならば、いたずらに人心を不安にさせるだけのことだ」という批判を下している。(ぼくはこのエピソードがなぜか大好きで、GAFAの侵攻に対しての反応とかと重ねると味わい深い。)
「世直し」タイプとしてのS親和者
 こうした「立て直し」にしか興味を持たない執着気質にたいして、もちろん、来るべき破局を予感し、過剰に反応する「世直し」タイプが幕末には出現した。かすかな兆候に敏感に反応してその事態がすでに現前しているがごとく恐怖するという分裂病親和者(スキゾフレニック:S親和者とする)の性格を持つ者たちである。人類史的に見れば狩猟採集民における狩りの対象への認知の鋭さ、先取的構えの卓越という性格を持つ。そのあと出現した農耕民の貯蔵・整頓・清潔・配分・計画性といった強迫症親和性=執着気質と対比をなす。S親和者は非常時には、にわかに精神的に励磁されたがごとく社会の前面に出て行動する。幕末の志士たち、とくに吉田松陰の思考・行動パターンにその典型が見られるだろう。ただしS親和者は、アジテーターではあっても革命のリーダーとはなりえない。その行動は、問題解決者としてではなく主に問題設定者である。
少数派としてのS親和者の意味
 分裂病になる可能性は全人類が持っているという仮定のなかで、強迫的な農耕社会の成立とともに、分裂病者(S親和者)は少数者として(王・雨司・呪医・新しくは科学者・官僚など)残った。日本のように執着性格者だけからなる社会は、事後的な構えしかとれず、大破局に気づかず、得意の小破局の再建を粘り強く反復できるかもしれないが、盲目的な勤勉努力の果ての「レミング的悲劇」を招きかねない。そのときに少数者としてのS親和者、スキゾ気質として、警告を発する「世直し派」が必要とされるのであろうか。ただ問題設定者にすぎない「世直し派」S親和者は、ひ弱で幻想的であり、カタストロフ待ちであった。幕末の鯰信仰は大地震に代表されるカタストロフにより世情一新を待望していた。2.26の反乱軍将校たちはクーデター後の計画を持たなかった。(読書メモは以上。)

 これからの破局に対しては、結局は復興と再建という執着気質的な解決しかできなかった第2次世界大戦の敗戦ではなく、それなりに主体的に行動しえた明治維新を参考にすべきでしょうか。一種の破局願望によって外圧に負けて、まんまと開戦してしまった日本をみると、アングロサクソンはいつだって(現在でも)同じような手口で戦争を起こさせて、しかもつねにしっかりと先手を取っていることがわかります。

 尊徳の水戸藩での鐘から大砲をつくることを批判する態度に共感して、何かと変化や改革を推進するひとに嫌味をいいがちな私は、やっぱり執着気質なのだなあといまさらながら自覚します。すみませんでした。
 尊徳の「仕法」を見ていると、まさに現在の経営コンサルタントの仕事とぴったり重なります。無駄を切り詰め、小さな工夫を重ねて、黙々と努力する。会社再建とかトヨタカイゼン方式とかと全く同じで、もはや日本人の勤労を尊ぶエートスそのものです。きっちり目標を立てて月ごとにシビアに管理させたり、トイレ掃除させたり。今の起業ブームでは渋沢栄一がモデルとなっていますが、それまではずーっと二宮尊徳モデル以外ありえなかったのでしょう。尊徳の語録にいわく
「田を治めるごとく身を修める」
「心の雑草を抜く」

日めくりカレンダーにして毎日眺めたいと思います。人生の生き方の規範それ自体が、徹底的に「農耕労働モデル」になっていて、共感するわれわれもまた、骨の髄までDNAから、農耕民族なのでした。



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