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中国というシステム(5)東洋的思考について

 ひろく中国思想全般にかんして、思いついたことを書いてみる。 
森三樹三郎「中国思想史」を読むと、思想における中国と他の文明との違いがよくわかる。あらためて頭がすっきり整理される感じだ。それをヒントにいろいろ考えてみた。
中国思想の特徴
・基本的特徴として、ギリシア思想は哲学的/芸術的で、インド思想は宗教的であるのに対して、そもそも中国思想は政治的であったといいうる。
・中国において古来学問の対象とするものは、人間の社会生活であり、人と人との関係が出発点であった。対して、ギリシア初期の思想が人間と自然との関係を、インドのそれが人間の宗教生活、神と人との関係を、それぞれ重視したのとは対照的である。したがって、中国にはインドのような宗教が生まれなかったと同時にギリシアのような哲学を持つ事ができなかった。もともとの関心の対象が違っていたからで、西洋的な哲学の枠組みを中国思想にあてはめて、むりやり中国「哲学」なるものをでっちあげてみて無意味なのだ。*1
・古代において、エジプトの死者崇拝に対して、中国は祖先崇拝である。エジプトは死者の来世に関心を持つのに対して、中国は氏族制度が長く維持されたせいで、祖先の霊が現世の子孫を守るという意味で、「現世的関心」が強かった。
・中国の基礎となる「天の思想」、天の神の崇拝は、起源としては遊牧民的であり、農耕民の殷を征服した周の時代にうまれた。しかしやがて、農耕民の影響を受けて、四季を循環させるものとしての「天の非人格化」がおこり、汎神論的・連続的な世界観が形成されることになる。
有神論・人格神vs汎神論・非人格神
・中国の「汎神論」における非人格神は、西洋キリスト教あるいはイスラム教の「有神論」における世界を支配する人格神と著しい対比をなす。西洋における自然と人間との断絶、支配・被支配の構造に対して、中国(日本も含めて)においては、世界/自然と人間との融和、神や自然と人間とが連続している構造である。
・天は非人格化すると同時に、万物のうちに内在するようになる。天はもともと神であり善そのものだから、人間のうちに入った天性は「性善」であるのは当然だが、なぜ人は悪事を犯すのかについて、朱子学においては:
 人間の性は「理」であり善であるが、「気」の原理も入り込んでくるので、「気」が陰陽・精粗などの多様性を供給するから、それぞれに不純になってくると考えるのである。
・神が作った世界になぜ悪魔が存在するのかという問題は、キリスト教では相当に難問だが、中国思想ではこのように「気」という外界条件の変数を取り込むことによって、まあ気楽に解決している。
・ついでに言えば、「天命」とは、人間を外から制約する受動的な「運命」だけでなく、それに加えて能動的な「使命」の合わさったものと考えられている。キリスト教における、神の奴隷であり生まれながらの原罪をかかえたという暗鬱な人間モデルではなく、きちんと自分で運命を切り開いていけるという明るい自主性を、人間に付与しているのである。(ニーチェが生涯をかけて主張した「神の否定」なども、一神教的世界観の哲学から離れてみれば、そんなに大問題でもないのだ。)
二元論vsグラデーション
・汎神論から由来する連続的世界観においては
  〇対比より融合が先行する
  〇精神と肉体を二元論ではとらえない。融合・連続している
  〇「禁欲」ではなく「節欲」
  〇善と悪の根源的対立はない。外部条件による、連続的なもの
  〇理想と現実の対立もない
・このように二元論ではなく、せいぜいある要素の量の過剰/不足によるもので、すべては「グラデーション的な認識」ですませることができる。このように考えていくと、西洋思想の対立構造的な世界観の馬鹿らしさがわかってくるのではないだろうか。まず二項対立の構造を立てて、それをあれこれ検討して(せいぜい加えて正・反・合の弁証法で次のステージに行くぐらい)結局のところ、もともと真理などという解けない問題を追及してアポリアに陥っているのである。

・精神医学においても、従来の症例分類から、障害の連続体・スペクトラムという概念が一般的になりつつあるという。自閉症とアスペルガー症候群の分別が不明確で、結局ひとまとめに自閉スペクトラム症というようになった。二元論から派生する分類から、スペクトラムというグラデーション的認識への移行である。
直線的思考vs平面的思考
・「中国や日本では紙が豊富だったので論理的ではなかった。」という楽しい暴論をどこかで読んだことがある。*2 ヨーロッパでは紙が貴重で、なかなか記録できないから、記憶が必要になって、そして記憶するために論理構造が必要とされたという説である。ヨーロッパが論理的なのは記憶するためであった。
・いっぽう、中国や日本では紙が豊富にあったからかんたんに記録ができて、わざわざ頭の中に記憶する必要がなかった。そして視覚的にものごとを併存・羅列しておいてもOKだった。だから我々は論理的でなかったというわけである。
・しかし、ここでいう「論理的」の論理とは、あくまでも、因果関係的な論理に限ってはという話になるだろう。直線的な文章で表現されるリニアな認式・思考といってもいいかもしれない。それとは別に、フラットな図像学的な認識・思考もまたあることを知るべきだろう。
・すなわち同時併存的な論理もまた存在するのだ。ぎちぎちの因果関係のみではない、緩やかに多くの要素が並置・共存する関係もまたあり、それにふさわしい論理もまた存在するはずである。対比するなら、因果関係的論理を「直線的」とするなら、同時併存的論理を「平面的」とでも表現できるだろうか。
・西洋的な弱肉強食、支配・被支配の関係性で規定される自然観(それはすなわち一神教の神により創造された自然観)ではない、東洋的な共生する自然観の反映といってもいいかもしれない。

西洋の「時間継起型」にたいして東洋は「空間併存型」とすればよりわかりやすいか。

文章的vs図像的
・そもそも文章では、直線的でひとつのことを時間の経過とともにしか語れないので、各要素の関係も、時間的な前後関係の限定を受けるリジッドな硬い構造をもつ。いっぽうで図にして平面上で並べただけの緩い構造というのもまたあるのだ。じっさいすべてがリニアに直線的な関係をもつわけがない。   
・往々にして、心の狭い西洋的思考では、先に上げた二元論を振り回して、「あれかこれか」の判断を迫ってきて、そしてそれのみを「論理的」と言い募るから、馬鹿は手に負えないのだ。*3 もっと「あれもこれも」すべての要素をまずは緩やかに併存させて、しばらく曖昧な関係性を保持して眺める時間をとったらいいのではないか。そして世界の大概の事は、白か黒かではなく、灰色のグラデーションなのだ。
・KJ法をはじめとした発想法では、ばらばらに書いたアイディアを平面でグルーピングして、まとまりをつけていくという手法をとるが、これもまた、東洋的な「平面的」思考といえるのではないか。(←「直線的思考」に対してあくまで「平面的思考」と名付けてみたが、本当はもっといい名前があるはず)
・より図像に特化した思考法、すなわち「ビジュアル・シンキング」というものを、それじたい豊かな思考法・知としてより大きく評価されるべきだろう。
・空海が恵果阿闍梨から真言密教の秘奥を伝授されたとき、恵果は「この教えは絵図なしに伝えることはできない」といって、数々の優れた絵画を持たせたと伝えられる。それがマンダラであり、図像による宇宙の秘密の伝達である。
表音文字vs表意文字
・もっと言えば、紙以前に文字の違いも決定的だろう。西洋の表音文字による表現が音声的でリニアな時間軸に沿っての認識しかできないのに対して、漢字は表意文字なので視覚的な認識ができるので、それがここでいう「平面的思考」を支えたのであろう。
・あるいは中国語は言語構造として孤立語であり、各エレメント・各語同士の接続が弱いので、因果関係的な論理を構築することに不向きで、むしろ直観的・象徴的な表現が発達したともいえるだろう。
おわりに
 いずれにせよ、紙が貴重であった貧しいヨーロッパでうまれた、記憶のための単線的な論理のみを論理的とするのは、論理的ではないだろう。
 西洋的思考との対比において東洋的な思考法の概略をまとめてみたが、これは手あかのついた平凡な常識にすぎないものだろう。しかし、この「中国というシステム」を続けてきて、あまりにも中国の現在の情勢にひきずられ、地べたを徘徊している気がしたので、今回の文章は、ちょっと目線を上げてみた息抜きという意味をもつのでお許しいただきたい。

*1:私は、西洋哲学そのものの有効性を疑っている。ギリシア・ラテン語の語源から推測する壮大で無意味な理論か、些末な例外事象の探索や問題を解明するよりは混迷させる方に役立つSFまがいの思考実験か、揚げ足取りの言語哲学か、いずれにせよ、アカデミズム内で宗教組織のように生き長らえているにすぎないように見える。せいぜい、高校生相手に開けっ放しの議論でおわる「てつがくワークショップ」でもやっているがいい。
*2:米原万里:「ほぼ日刊イトイ新聞」2002年11月21日
*3:どうしようもない極限的な緊急時を想定して、老人か若者かどちらを助けるかとかいう「正義論」の授業があるが、なんとも人の命を弄んだ薄ら寒い議論である。どんな結論が出ようと、そもそも適者生存・弱肉強食の世界観の中でのそんな思考実験の設定自体がナンセンスなのだ。ユーモアとヒューマニズムが欠如している。






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