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これからの計画論の条件(13)最終回:デザイナーはアーチストかアイドルか

13.アーチストかアイドルか:デザイナー論として
 この連載も今回でいちおう一区切りとします。いままで、まじめなプランナー論を述べてきましたが、最後に肩の力を抜いて、ぼくの本業であったデザイナーについて考えてみます。(あまり計画論とは関係ないですが。)
 多分、理想的なデザイナーとは、成功して完全に市場に受け入れられた「アーチスト」のようなものでしょうか。かれの自己表現としてのデザインがまずは認められる状態ですが、市場の消費に耐えるだけの自己表現を生産し続けることには限界があります。そもそも表現すべき「自己」とは何か? というわけで多くのアーチストはつねに「自分探し」に向かわざるを得なくなります。
 いっぽう、市場から認められ選ばれる立場としての「アイドル」という存在があります。彼ら彼女らは「どうすれば自分が相手に(ファンや市場に)認められるか」だけがテーマなのです。しかし実際は、いわゆるアイドル達も自分をどうキャラ付けしてアピールしていこうかと、つまりはどう自己表現していこうかというアーチスト的な悩みに陥っています。ここでそんな自己表現へのうじうじした悩みを一刀両断する人物が登場します。
わが指原莉乃は颯爽と宣言しました。すなわち、
「自分のキャラクターなんか、他人が決めてくれる」
「キャラは作るものではなく、受け入れるもの」
(「逆転力」より)
 この「自分は他人が見つけてくれる」というおそるべき認識は、おおくの自分探しで悩む若者たちだけでなく、初めに自我を設定するデカルト的な近代自我論そのものへのコペルニクス的転回ではないでしょうか。これはちょっとおおげさにしても、デザイナーも自己表現などに悩まずに、表現すべき自己なんかないと開き直って、市場に身を投じるべきではないでしょうか。
 「この世を本当に愛する者は、世間の気に入るように自らを形作る」
(トーマス・マン「詐欺師フェリークス・クルルの告白」より)
 とはいいつつも、「へたれ」からはじまって、MCのうまさ、コメント力、リーダーシップ、強烈な集票能力、アイドルグループや化粧品のプロデューサーへと、異常な進化を遂げてきた指原は、やはりただ単に市場や他人だけに決定されてきたわけではないでしょう。つまりは、本来はまず少しづつアーチストとしての自己表現をして、市場の選択を経てアイドル的な評価を得ながら、更なる自己表現をしていくという、アーチストとアイドルとを弁証法的にいったり来たりしながら、スパイラル状に拡大進化していったといえるでしょう。
 というわけで、「アーチストとして自己表現しつつアイドルとして市場に身を任せよ(指原莉乃のように)」という言葉を、若きデザイナー諸君には送りたいと思います。


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