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明治維新の周囲(3)

維新という革命のその後の余波について書いてみます。<アフター維新>
革命の輸出
 いったん革命が成就したとき、その理念とエネルギーは、体制内に安住することはできずに、さらなる「革命の継続」か、あるいは外部に向けての「革命の輸出」として噴出する。明治維新という革命の場合、内部的には、体制内に地位を得ることができなかった志士たちが、まず暴力的に、佐賀の乱、西南戦争という不平士族の反乱を起こし、続いて非暴力的に、維新の目的である平等と政治参加の民主主義の徹底つまり「革命の継続」を求めて、自由民権運動へと続いてゆく。
 外部に「革命の輸出」というベクトルに向かって維新後直ちに起こったのが、旧体制にまどろんで西欧の侵略を受けんとする朝鮮を救おうとした西郷隆盛の征韓論だったが、国内の体制固めを優先する大久保利通らによって抑えられた。
 まったく同じように、レーニンは、革命による権力奪取後は、賢明にもドイツへの革命の輸出ではなく、講和を優先して国内の体制作りに向い、対立したトロツキーは、キューバ革命後のゲバラと同じように、放逐されて世界革命の夢を追っていくことになる。
 フランス革命後のナポレオン戦争は、外国からの侵略への対抗を契機にしたとはいえ、結果としては「革命の輸出」となった。
 余談ですが、大きな統一、征服戦争を戦った後の不要になった強大な軍事力はしばしば対外戦争に向けられた。元寇は、フビライによる南宋征服の過程と結果において生じた軍事力の使い道という面があり、秀吉の朝鮮出兵こそは、まさに天下統一の戦争で膨れ上がった軍事力のほこ先であった。朝鮮戦争において毛沢東があれだけ潤沢な義勇軍を送れたのも、国共内戦の統一戦争で余剰になった軍隊の「処理」に最適だったからで、実際、収容された国民党軍の兵士たちは人海戦術の前線に送られた。
中国革命への支援
 さて、明治維新の場合、1889年に帝国憲法発布と議会開設によって、自由民権運動がそれなりに結実し、日清・日露の戦争を経て資本主義の発展と中国への進出と呼応して、維新・革命のエネルギーはふたたび外部へとむかった。中国の革命を支援する大陸浪人たちを支えた理念は、維新と自由民権運動の理想が日本では実現できなかったことの代償であった。
 それにしても頭山満や犬養毅たちの孫文への支援はいまみても極めて大きなもので、日本が、辛亥革命へとつながっていく中国革命を準備した震源地、いまふうでいえば「インキュベーションセンター」であったことはまちがいない。
宮崎滔天
 宮崎滔天(1871-1922)は、1897年に孫文(1866-1925)と知り合い、以降同志として積極的に支援してきた。1902年それまでの活動と武力蜂起の挫折の半生を綴った「三十三年の夢」を出版し、その中国語訳が「孫逸仙」(孫文の本名)として紹介され、中国人の間での孫文の知名度と支持拡大につながったという。その後1911年の辛亥革命によって清王朝は倒れるが、日本政府の袁世凱支持、また対華21か条要求によって、反日運動が激化してしまい、さらに混迷していく。日本のアジア主義者・大陸浪人たちの夢は、日本で西欧植民地支配からの自立を実現させた明治維新を、中国や東アジア全体に輸出して、植民地からの独立を助け合ってともに勝ち取っていこうとするものであったが、中国への欧米的な権益確保をめざす日本政府によって、まさに身内から裏切られ続けていくことになるのである。この引き裂かれた構図は敗戦までベトナムやインド、インドネシア独立への支援と抑圧というかたちで継続していく。
 中国側からみても、すでにイギリス、フランスによって植民地支配されてきたにもかかわらず、その支配への不満の矛先を、白人にではなく同じアジア人である日本に向けて、いわば民心統合のための外敵としての日本という設定が便利であったことは、現在でも(よく利用される手口なので)理解できる話であろう。(特に国民党からの弾圧に苦しむ共産党は、積極的に日本への挑発を行って、日本を中国介入の泥沼に引きずり込もうとして、結局それに成功する。毛沢東(1893-1976)はもし日本が介入しなければ統一はもうすこし長くかかったといったそうだ。)
 ちなみに、余談ですが、24才の毛沢東は1917年の湖南省で宮崎滔天の講演会に出席している。若き毛沢東のいわば革命の原点に明治維新があったのである。
北一輝
 一方、宮崎滔天と同じように中国革命の渦中に飛び込んで活動していた北一輝(1883-1937)は、上に書いたような日本本国からの度重なる打撃によって、結局、中国から帰国して、日本の革命に向かうことになる。花田清輝はこう書いている。
「イギリスと、その東洋の番犬たる日本は、反革命の側を支持し、せっかく、軌道に乗りかけた革命を、めちゃくちゃにしてしまう。北の同志である宋教仁は、袁世凱のために暗殺される。宋とともに、袁世凱と孫文に対立してきた北は、その暗殺には、袁ばかりでなく、孫文もまた、関与しているのではないかと疑う。・・・(中略)・・・結局、中国の革命は、日本を革命しないかぎり、決して成功するものではないということに気づく。」
「そして、上海の旅寓で、ベランダの下を通過する怒涛のような排日運動の中国人のむれをみつめながら、『日本国家改造法案大綱』を書くのである。したがって、二十九歳で、辛亥革命の渦中にとびこんで以来、十年近い彷徨の末、ようやく北は、単に頭で理解するだけでなく、日中両国の革命が、きってもきれない関係にあるということを身をもって理解するにいたったわけだがー-
しかし、それにしても、そこからうまれたかれの日本革命の方法は、なんと中国的なものだったことだろう。かれの『日本国家改造法案大綱』は、いかにも一応、日本人向きの細工はほどこしてあるが、要するに、ヒラヒラをとり去ってしまえば、少数の前衛部隊によって指導される軍事革命、という中国革命の方法の再版にすぎないのだ。中国にアメリカ風の民主主義革命をもちこもうとしているといって、孫文の「根拠なき空想」をわらったかれが、日本に中国風の軍事革命をもちこもうとしている、おのれの根拠なき空想については、いささかも懐疑的ではないのだからおどろくほかはない。」*1
日本国家改造法案大綱
 少数の軍事部隊による権力奪取は、古来より中国王朝における禅譲の実態であり珍しくないし、トルコのケマルアタチュルク、エジプトのナセルなど軍事クーデターによって改革的政権を樹立した例も多い。天皇を確保して、憲法を停止して戒厳令を敷くという権力奪取の手段こそいささか暴力的だが、北一輝の構想それじたいは、私有財産の制限(といっても今の金額で一家族20憶円)、財閥解体、限度を超えた大規模産業の国営化、8時間労働、男女平等など、戦後の改革を先取りした、自由放任を制限する構造改革的な提案もおおく含まれていた。そして何よりも『日本国家改造法案大綱』は、冷害によって東北の農民が娘を売りに出すという窮状に苦しむいっぽう、戦争の兵士の血によって獲得した炭鉱を払い下げさせて私腹を肥やす財閥の富裕層といったことに象徴されるような、深刻な社会矛盾にいきどおった、2.26の青年将校たちの行動をささえるバイブルとなりえたのである。ただ、天皇をあくまでも天皇機関として非常時の権力奪取の手段としてみていた北のリアリズムに対して、天皇の個人的理解を期待し、確たる成算と計画もないままの、青年将校の陽明学的な行動主義が、まったくすれちがうものであった。
陽明学的な行動主義
 ここでいう陽明学的な行動主義とは、このブログの「明治維新の周囲(1)」で書いた、陽明学の目的なき行動主義であって、カミカゼや三島由紀夫を支えた、死をもいとわぬ行動あるのみという「討ち死に精神」の美学であり、たとえばそれは、仇討ちでは、準備などせずに、やみくもに討ち入ることをむしろ本懐とする様な、「葉隠れ」に象徴される武士のエートスでもあった。きっちりと復讐を成し遂げた大石内蔵助の合理主義は、武士本来というより、藩の経営で商人たちとしっかりと付き合っていたことから生まれた、結果をも重視する周到な合理主義であった。この国には、結果よりも流した血と汗を重視する行動主義(というより結果を重んじないのだから行動主義というより精神主義というべきだが)が、苦境に陥ったときにしばしば横溢することがある。
 とはいえ、明治維新において多くの志士たちが志半ばで倒れ、彼らの抱いた革命への見果てぬ夢は、西郷隆盛を鎮魂しつつ、大陸へと向かい(「革命の輸出」)、そして北一輝とともにふたたび日本に還流して散っていったといえるであろうか。

*1:花田清輝全集第6巻「ロマン主義者ー北一輝」p171-172


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