私の「仏」

昨日から2日間、京都の禅塾に於いて、布教師の同志と勉強会を行いました。

テーマは、来年度の本山推進テーマ「無依の道人(むえのどうにん)」

この言葉は我々臨済宗の宗祖・臨済義玄禅師のお言葉です。

言葉と向き合う。

一言で「向き合う」と言っても、難しい。

ただ、其々の実体験の中で味わっていくので、年齢や経験値、普段の心構えで着眼点が異なりますから、捉え方、伝え方に多様性が生まれます。

そして確実に「人柄」が法話には現れます。

法話にとって、それが醍醐味でもあります。

禅の考え方として言えるのは先ず、いかなる場合でも常に自分自身と向き合う所から始まるということです。つまり、矢印を外に向けるのではなく、常に自分自身の方向に向けて我が心、「私の仏」を拠り所として生きていく。これが大前提です。

では、その「仏」とは何か?これが重要です。

歴代の祖師方は、いつの時代も其々の時代背景の中で実践修行(坐禅・問答など)を通してその「仏」を自らの一言にして吐いてこられました。それが現在に伝わる「禅語」と言われるものです。禅の「真理」の名前と言っても良いと思います。皆様も「空」「無心」「無事」などは耳にしたことが有るのではないでしょうか?

では何故、名前がいくつもあるのか?

それは、一つの物でも見る角度で見え方が変化するように、真理も境(それぞれの置かれている立ち場・今・ここ)に随って変わっていくので、名前が違うだけです。

例えば、夜空に浮かぶ月は一つしかありませんが、琵琶湖に映る月は「琵琶湖の月」、猿沢の池に映る月は「猿沢の月」、大安禅寺の庭の池に映れば「大安禅寺の庭の月」と名前が異なるようなものです。ですが、月に変わりはありません。本体は一つ。

「私の仏」も同様に違った顔をその場その場に応じて現じているだけで、元に変わりはありません。でも、そんな月に雲が懸かれば、池にも映らないし、月明かりも届かない。

その雲を私達の心に置き換えれば、「煩悩」または「自分の都合」とでもいいましょうか。その都合の雲が「私の仏」に懸かった時、折角の「私の仏」は誰にも見えなくなってしまう。しかし、月が無くなったわけではありません。「私の仏」も無くなったわけでもありません。雲が流れ消えていけば、そこに月は相変わらずに煌々と輝いている。「私の仏」も輝き続けている。

でも「雲」も無くなるわけではありません。元は水ですから、目に見えないだけで状況に応じて、また生じるのが雲でもある。私達の煩悩も尽きることはありません。お月さんのような「私の仏」に気付いても「自分の都合」も尽きない。

だから、「自分の都合」を払わなければいけないのです。私の心に積もった「自分の都合」の塵を払っていく。掃いて積もれば掃く、また積もれば掃く。秋の庭掃除のように・・・。

そういう、「とどまらずに塵を払える私」が「私の仏」です。

それを「空」「無心」「無事」と祖師方は言われたのです。今回のテーマである「無依の道人」も同じで、臨済禅師の「仏」の名前です。

その話は、また次回。

先ずは「私の仏」を信じましょう。あなたの「仏」はどんな顔をしていますか?

ここは一つ、自分の都合と言う「衣」を脱いで考えてみましょう。

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