高橋玄峰

福井県/福井市/臨済宗妙心寺派/大安禅寺/越前松平家永代菩提所/日々の「おもい」を徒然…

高橋玄峰

福井県/福井市/臨済宗妙心寺派/大安禅寺/越前松平家永代菩提所/日々の「おもい」を徒然に/禅/

最近の記事

「縁」は生かすもの。

初秋の夕方。 お寺の境内が真っ赤に染めあがる頃。 空には悠々自適に飛んでいる赤蜻蛉。 それを嬉しそうに我が子たちが追いかける。 赤蜻蛉はそれでも悠々自適に飛んでいる。 焦ることもなく 逃げることもせず ふと不思議に思う。 なぜトンボは飛べるのか?(なぜそんなに気持ち良さそうなのか?) 隣に居た妻に聞くと「何言ってるの!羽が有るからでしょ!!変な質問(笑)」 (ん?違和感) 羽があるから飛べる? いやちがう! そうか! 羽を動かしているから飛べるんだ

    • 名月

      今年の中秋の名月も、見とれるほどに美しかった。晴れ間に見える月では無く、雲間に煌々と輝く姿であった。またそれが一段と美しさを引き立てていた。 禅では、私達に本より具わっている仏心を「月」に例える。月は闇夜を照らしあらゆるものを明らかにしてくれる。しかし、雲が懸かればその明かりは届かない。私達の心も同じようにお月さんのような明かりを放っているのだけれども、こだわりやとらわれと言った計らいの心が執着心となり雲のように覆ってしまうことがある。 よく「忙しい」という漢字は、心を亡

      • お帰りさないませ。

        心法形無うして十方に通貫す。法法本来法。是も無く非も無し、日は昇り月は下る。『大愚遺芳』 この法語は開山大愚禅師の語である。 「心法形無うして・・・」とは臨済禅師の語録『臨済録』にある有名な一節。 「いかなるか是れ法。法とは是れ心法なり、心法無形、通貫十方、目前に現用す。」『臨済録』 私達は、心というそのままで素晴らしい真理の輝きを具えてるからこそ、ありのままに今日という一日を生かされている。 全ての物事はそのままで実相、真実でありそれに対し是非を問うことは愚行とい

        • 「大安禅寺の名宝」を終えて

          雨降りしきる5月6日の午後。 その雨がやけに心地よくて、様々な思いを洗い流してくれるように思えたのは私だけだろうか。 そしてこの日は、福井市立郷土歴史博物館に於いて約1ヶ月半に及んで開催された『大安禅寺の名宝』展の最終日。 私も諸々の仕事を早めに終わらせ、3時頃に博物館へお礼に訪ねた。駐車場は満杯、嬉しいことである。入館すると、ご法縁の皆様が大勢拝観に来て下さっていた。何と県外の旧友までもが駆け付けてくれた。 そんな中、普段からお世話になっている女性の方が声を掛けて下

        「縁」は生かすもの。

          令和の大修理

          新元号「令和」が発表され、早いもので3週間が経過しようとしています。「令和」という元号にそれぞれの見解が有ろうかと思いますが、約10数年に渡る保存修理事業が、本年度より本格化する大安禅寺にとってみると大変意義のある発表でした。 「令和の大修理」 この大事業は、先代である祖父の代からの悲願であり住職も長年その思いを背負いながら大安禅寺の護持護法に尽力してきました。手前味噌ですが、その苦労してきた姿を幼い頃から見て来たので、自分の代でその事業を引継ぎ次の時代に繋げていく重責に

          令和の大修理

          贅沢な時間

          時代が時代であれば、絶対に味わえない今回の空間 「大安禅寺の名宝」特別企画として実施された越前松平家別邸”養浩館”に於いての禅体験。 私は坐禅指導と法話を担当させて頂きました。 夜の博物館を学芸員様による丁寧なご案内(「大安禅寺の名宝」ギャラリートーク)の後、養浩館に移り禅体験。最後には、デザイン会社ANTENNA小林さんが主催する「茶の湯部」の皆様のご協力を賜りお茶席を設けました。 一言で、全てが贅沢な時間でした。 今回、有難いことに定員20名のところ、申込みが多

          贅沢な時間

          坊主冥利につきる

          和尚さん大学進学が決まりましたので、ご挨拶に伺っても宜しいですか? 信者さんの娘さんからの一本の電話。 お参りの度に、私の取り纏めない話をいつも笑顔で素直に頷いて聞いてくれていた小学生だった娘さんも大学生。 早いもんだなぁ。 昨年は坐禅会にも何度も参加されて自分の本心と向き合っていた。 律儀に挨拶だなんて、和尚は泣いちゃう😭 「和尚さん有り難うございました。とにかく、それが伝えたくて。」 また号泣😭😭😭💦 お坊さん冥利につきるとは、こんな時に実感する。 何故

          坊主冥利につきる

          いよいよ

          始まりました。 「大安禅寺の名宝」展 新元号に変わるこの年に、大安禅寺は「新元号の大修理」が始まります。遡ること約360年前、福井藩4代藩主・松平光通が「祖先と両親への恩を忘れない為に」という願いから、名僧大愚宗築禅師を開山としてお迎えし創建された福井藩越前松平家永代菩提所・大安禅寺。 当時の名大工による禅宗様式の大伽藍が、福井城より北西7キロの小高い山の中腹に建てられました。 以後、福井藩歴代藩主の精神的支柱、つまり藩主の「心の拠り所」として明治に入るまで庇護されて

          いよいよ

          節分大祈祷会

          当山では今日の夜、毎年恒例の「節分大祈祷会」を執り行う。 多くの参拝者で賑わい今年1年の厄除開運・災難消除・諸願成就を祈る。 お堂はいつも参拝の方で埋まり、ご祈祷後の「鬼払い」「大福引大会」が人気だ。 地元の子供も沢山訪れ、リアルな鬼が3人も登場する鬼払いでは泣き叫ぶ子から、果敢に鬼に挑む子や必死に「鬼は外ぉぉぉぉ!」と鬼を払う子など堂内は異様な雰囲気に包まれる。 そんな鬼に「魔を滅する」ということから「魔滅(豆)」を投げるようになったという説がある。それも、再び芽が

          節分大祈祷会

          奪ってやる。

          カラスが鳴けば「カー」と 鐘が鳴れば「ゴーン」と そのままの音が聞こえてくる 「古池や 蛙飛びこむ 水の音」 松尾芭蕉の歌もそうだ それぞれに違った相でありながら それぞれの境がありながら 心を通じて交じり合う 間髪入れずに一つになる 有難い「こころ」が活き活きとしている そんな私の「こころ」を邪魔するのも また 私の「こころ」である 「心こそ 心迷わす 心なれ 心に心 心ゆるすな」 沢庵和尚も言っておられる そんな余計なものを奪って下さる人が 周

          奪ってやる。

          左義長

          全国各地でこの時期行われる「左義長」または「とんど」「どんど焼き」と呼び方は地域の因って異なり様々あるが、基本的には村の守り神である道祖神を祀り子孫繁栄、家内安全、災難消除を願う行事である。 お正月の飾り物や、一年間身に着けていたお守り、また書初めなどを一緒にお炊き上げすることで一年の無事を祈っていく。 私の地元でも昔より綿々と受け継がれている「左義長」が来週13日(日)に行われる。今日はその準備日、早朝より村の当番役の方々が慣れた手つきで昔からの習わしに則り組み立ててい

          吾道一以って之を貫く

          謹賀新年 本年も相変わらぬご法愛をもちまして、ご縁を結んで頂きますよう宜しくお願い申し上げます。 さて、大安禅寺では、大晦日除夜の鐘にはじまり、正月三が日と大勢の方がお参りにお越し下さっています。 有難いことに、「大安禅寺で新年を迎えることが私たち家族にとって幸せの始まりなんです。今年もお参りに来れました、有難うございます。」 このような言葉を参詣のお客様からお聞きすると、反対に私のほうが幸せのおすそ分けを頂いたように感じ嬉しくなります。それと同時に、更に護持護法に努

          吾道一以って之を貫く

          除夜の鐘

          今年も大安禅寺では大晦日に「除夜の鐘」並びに「新年のご祈祷」を催します。 皆様は毎年どのような年越しを過ごしておられるでしょうか?ただ、除夜の鐘を撞いて、初詣で願い事をしてと自分本位な考え方で過ごしていませんか?決してそれが間違っているわけではありませんが、今一度心の転換を試みてほしいと思います。 「除夜の鐘」とは大晦日の夜に着く鐘のことを指しますが、私は「心の闇をを除く」というお話を参拝に来られた人にします。 つまり、「闇(執着)」を払って心を正し新年を迎えるから「正

          除夜の鐘

          「無依の道人」つづき

          前回は「無依の道人」の「道人」について述べた。 「道人」を「人生」と置き換えて見れば、様々なご縁に生かされているのが私たちである。しかし、人は自分中心で考えてご縁を見た時、そのご縁を分別しがちになる。大きく分けて「良いご縁」「悪いご縁」のように自分にとってのご縁と言う立ち位置から話す。 しかし、禅の「無分別智」から考えれば、どのご縁も私を生かしめてくれている大切なご縁だということに気付くことが大事である。 人間誰しも「良いご縁」に恵まれたいものだが、そうは問屋が卸さない

          「無依の道人」つづき

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          「大安禅寺の名宝」展ポスター皆様のお好みは?

          「大安禅寺の名宝」展ポスター皆様のお好みは?

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          「無依の道人」

          現今目前、聴法無依の道人、歴歴地に分明にして、いまだ曾て欠少せず。『臨済録』 →今ここ、目の前で臨済禅師の話を聞いているその者が「無依の道人(むえのどうにん)」であり、そのままではっきりとしていて、欠けているところなど何一つもない。 ①特別な人では無いということ。 ②わたし自身の問題という自覚。 ③常に自分自身を見つめるところから始まる。 ④「不完全」と言う「完全」に気付く事。 今回は「無依の道人」について言及する。あくまで、これは一人の禅僧としての見解であり、私

          「無依の道人」