日本古典 江戸末期時代 「市河米庵」
1179年―1858年
書家。詩人。儒者市河寛斎(かんさい)の子。
名を三亥(さんい)、字を孔陽、また小春といい、号は米庵、楽斎、金洞山人など。
幼時より父の薫育を受け、林述斎などから朱子学と書を学び、とくに書は中国宋代の米芾に傾倒し、その筆法を研鑽する。米庵という号は米芾に因んでいる。
長崎で清国の胡兆新(こちょうしん)から直接に書法を学び、しだいに筆力旺盛な米庵流を創始してゆく。
晩年には書塾小山林堂をひらき、大名、町人、僧侶など五千人もの門下を擁し、のちに巻菱湖、貫名海屋とともに、「幕末の三筆」と言われた。
漢籍のなかから揮毫(きごう)に適した語句、詩編を抜粋した『墨場必携(ぼくじょうひっけい)』など、著書を多く残している。
・樂志論
〈原文〉
使居有良田廣宅。背山臨流。溝池環匝、竹木周布。場圃築前、果園樹後。
〈読み下し文〉
居をして良田廣宅有らしむ。背を山にして流に臨む。溝池(こうち)環匝(かんそう)し、竹木周布す。場圃(じょうほ)前に築き、果園後に樹う。
・玄妙個展2021「古典漫遊〜文字の変遷をたどる〜中国編」
・玄妙個展2022「古典漫遊 中国書法から日本の書まで文字の変遷をたどる」
・玄妙個展2023「古典漫遊 中国書法から日本の書まで文字の変遷をたどる」