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100年前の大同・雲崗の風景~『関野貞日記』から by 村松弘一(GEN世話人)

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 1918年、建築史学者・考古学者の関野貞氏が大同・雲崗を訪れました。その日記には現地の村の風景や食事、そして相変わらずの口喧嘩の光景が書かれています。どうぞ、100年前の大同の雰囲気を感じてください。
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 今、大学の授業で『関野貞日記』という資料を読んでいます。関野貞氏(せきの・ただし 1868年‐1935)は、新潟県上越市(高田藩)生まれの建築史学者・考古学者で、帝国大学工科大学(のちの東大工学部)を卒業し、1901年から東京帝国大学に勤め、1928年まで教授をしていました。彼の残した日記には、明治から昭和にかけての朝鮮半島での古建築や考古発掘、満洲や大陸の遺跡調査などが記され、また、アジア各地の人々の暮らしや彼らへの個人的な感想も書かれています。また、東京での日々の生活や人間関係もわかり、上野の東京国立博物館や本郷の東京大学、さらには日比谷の松本楼での宴会まで、日ごとに書かれています。あの安田大講堂も関野氏の東大在職中に完成しました。

 さて、この『関野貞日記』のうち、たまたま先週の授業で大同の記事を読みました。関野氏は大正7年(1918年)、文部省の派遣で日本から朝鮮・満洲・中国、インド、ヨーロッパ・アメリカをめぐる1年半の研修旅行をしました。大同には、5月1日から8日まで滞在しました。旅の様子をかいつまんで紹介しましょう。
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・5月1日、北京西直門の駅を朝8時40分に出発し、約12時間後の午後8時、大同に到着。列車ではスウェーデン人美術史家のオズワルド・シーレン氏と同室で日本・中国の古美術について語り合った。大同の宿舎は東華桟という比較的清潔な宿であった。

・5月2日、朝の大同の町は城壁が崩れ、民家は荒廃し、荒涼とした光景がひろがり、道路は石が多くひどくでこぼこで、馬車の揺れは激しかった。大同から雲崗までは馬車で4時間ほど。雲崗石窟の石仏寺の前は民家が十軒ほどの寒村であったが、寺は壮大で、寺の側の杏の花は花盛りで美しかった。午後、シーレン氏と雲崗石窟を見学。雲崗の町は寒村で、人はまれ、荒廃した家屋に住む人もおらず、ただ、土壁のみが見える。人家はすべて土で築かれ、なかにはほとんど穴居のようなものもある。そこには宿屋もなく茶水店があるだけで、全く食べ物はつくってくれない。寺には僧侶が住んでいたが、乞食のような者三人がいるだけで、食べ物をつくれるような人々ではない。私たちも自分で麺をゆでるぐらいしかできないので、ジャガイモとモヤシだけがあったが、塩のほかに醤油もなく、豚肉もなく、ほとんど調理などできない有様であった。

・5月3日、朝早くにボーイにロバで大同へ食料を買いに行かせた。私は朝、卵を3つ食べたが、それをシーレン氏に話したところ、ビスケットとバターを恵んでくれた。その日は一日中、石窟の配置の図面作成、写真撮影をした。午後五時にようやくボーイが帰ってきて、白米・醤油・ごま油・油菜(チンゲン菜)・窩笋(山クラゲ)・黄醤(黄豆醤)・大海米(干しエビの調味料)・白糠(米粉)そして豚肉を買ってきた。そして、夜はお米と豚肉に舌鼓を打った。

・その後、5月3日・4日・5日の三日間は、雲崗石窟の調査をおこない、6日に大同に戻った。大同では華厳寺・善化寺を見学した。日本語のちょっと話せる大同の知県(県の長官)と会い談話したが、現地の仏寺や北魏時代の陵墓について聞いても何も答えられず、府志(地方史)も無いという。夕方、宿の向かいの二人の妾が些細なことから大げんかをはじめ、罵りあい、夜に警官が来たがやめず、騒々しいこと甚だしく、滑稽でもあり、憐れでもあり、それはまさに中国の家庭の「暗黒面」が表に出たものであった。
(※注:「暗黒面」という語は日記に書かれています)
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 いかがでしたか。穴居つまりヤオトン風住居を見た関野さんは驚いたことでしょう(写真参照)。また、杏の花が美しく咲いている風景は呉城郷の写真を思い出させます。ジャガイモとモヤシがあれば十分のように思いますが、やはり、豚肉と青物野菜と調味料がないと3日もたないのでしょうか。そして、大声で喧嘩する中国の女性たち。いつの時代も中国は変わらない「暗黒面」がある?ように思います。

 さて、関野さんの訪問から20年後、1938年から1944年にかけて、東方文化学院(現・京都大学人文科学研究所)の水野清一氏らによって雲崗石窟の本格的な調査がおこなわれます。それは日本軍の大同への進軍とも同じ時期です。関野さんの大同・雲崗の日記は、そういった日中の暗い時代の前をうつしだしてくれています。

(参考文献)
『関野貞日記』中央公論美術出版、2009年

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