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黄土高原史話<53>父帝暗殺の後をうけby 谷口義介

 今春のワーキング・ツアーは、参加申し込みの出足が悪いとか。そんなわけで筆者にも、「久しぶりに、いかが?」と声がかかったが、3 月末をもって定年退職、ヒマができると思いきや、2つの大学で非勤。新学期早々に休講はまずい。おりしも本シリーズの正念場、北魏時代の大同の遺跡をめぐってみたいところだが。特に陵墓はまだ見てないし。

 さて、北魏の初代道武帝は即位まえの398 年、それまであった新平城に本拠を移し、大規模な都づくりに着手する。プラン的には三つの区域よりなっていて、まず北側が宮城で、いまの大同駅周辺で見つかった遺構こそ、その北壁と思われる。北魏時代の灰黒陶片・布目瓦・軒丸(のきまる)瓦が発見され、整然と並ぶ礎石も検出されているからだ。文献によると、宮城内には30 以上の宮殿や楼閣があったとか。409 年、道武帝が崩じた天安殿もその一つ。宮城の南側が外城で、現在の大同市街の中心あたり。宮城と外城には、貴族・高官の邸宅や諸官庁が建てられた。なべて中国風の意匠です。外城のさらに南が外郭(がいかく)で、こちらは庶民の住宅区と商業区。ちなみに、大同市南郊区にあったGEN の旧根拠地「地球環境林センター」から、大量の土器や瓦が出てきたが、その関連の遺跡かも。作業の方はそっちのけ、カケラ拾いに夢中のツアーもありました。

 いま建設中の新拠点「緑の地球環境センター」は市街からみて東北方、大同県周士庄鎮にあり、漢と匈奴の古戦場、白登山の麓です。今度は、前漢時代の遺物が見つかるかも。


 それはともかく、北魏二代目の皇帝は、父を殺したドラ息子、15 歳の拓跋紹(たくばつしょう)ではありません。遊びが好きで、まちのトラブル・メーカー、さすがの帝も手を焼いて、井戸で逆吊(さかさづ)りの罰を加えたほどですが、生母の賀夫人(がふじん)が帝の不興を買い殺されかけたのを知って、逆に父を弑殺(しいさつ)する。ところで紹には拓跋嗣(たくばつし)という異母兄あり、道武帝の長男で世継ぎだが、その生母の劉貴人(りゅうきじん)も帝によって殺された。ときに18 歳の皇太子、これを哀しみ「日夜号泣」(『魏書』太宗紀)していると、怒った帝は出頭するよう命じます。いま参内しては危ないと、側近の者から進言され、都の外に出ていた折も折、異母弟による父の殺害事件が発生する。もし宮中にいたならば、父といっしょに殺されていただろう。

 事件を知った太子の嗣、急いで宮城に引き返し、紹を誅して即位する。これが、北魏第二代の明元帝(在位409~423)。

 その治世14 年は、父の拡大した版図を守り、もっぱら内政に意を用いたといえましょう。しかしその最晩年、2000 余里の長城を築き北方柔然(じゅうぜん)の備えとするや、慎重派の反対を押し切って、南のかた黄河の渡河作戦を敢行し、洛陽を含む河南一帯を奪取した。

 かくて、南北朝対立の形成がほぼ確立することに。
(『緑の地球』138号 2010年3月掲載)


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