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黄土高原史話<30>「関市によって通商す」 by 谷口義介

  2000年の夏、大同郊外の地球環境林センターで前漢時代の土器片を拾い、大いに吹聴したのがそもそものきっかけ。編集子の耳にも入り、「3~4回の予定」と依頼されてスタート。埋め草程度の意味はあろうかと勝手に思い込み、その後も続けて満5年、今回で何と30回目。
 読み返してみて、今更ながら気付いた点あり。「黄土高原」史話と題しながら、どこからどこまでと線引きしていない。面積ざっと52万平方キロ、日本全土の約1.5倍と、とにかく広大。何を目安に区切るかで、その範囲も違ってくる。基準はともかく、GENが出した報告書『中国・黄土高原における緑化の可能性調査』と、雑誌『アジア遊学』第20号「<特集>黄土高原の自然環境と漢唐長安城」では、その東南部に洛陽盆地を入れるかどうかで、見解に相違が。ちなみに本シリーズはGEN説に拠る。
 しかし、北部東半については、他の諸説も含め、万里の長城ラインで一致。現在の行政区画でいえば、ほぼ山西・内モンゴルの境界と重なります。
 そこでまたまた気が付いた。中国文明の象徴、地上最大の建造物ともいわれる万里の長城に関し、未だ一切言及なきことを。
 宮城谷昌光『長城のかげ』は、漢初における匈奴との対立を背景にした好短篇。本シリーズの<26>と少しかぶりますが、拙稿では「辺境」「北辺」「塞外」はあっても、「長城」の文字はありません。ただ「塞」とは辺界の意ですから、暗に長城を指しています。


 ここでいう長城。初めに築いたのは趙の粛侯で(『史記』趙世家)、雲中・雁門・代の3郡を置いた武霊王が、これを延長・修築(匈奴列伝)。始皇帝の命による秦の長城は、この付近に限り、あくまで趙の長城を利用したもの。おりから強大化した匈奴の南下を防ぐのが目的です。
 匈奴の侵入は、いわゆる「平城の恥」のあと、漢側の屈辱的な和親外交もあって、しばらく休止。前162年、文帝が匈奴に送った書状の中に、「漢と匈奴は隣敵の国」(『漢書』匈奴伝)、つまり隣り合った対等の国という文言がありますが、これはいささか強がりか。
 また、「文帝の時、匈奴和親し、与(とも)に関市を通ず」(『冊府元亀』外臣部互市の条)と。
 この関市、別に胡市ともいい、次の景帝・武帝にも引き継がれますが、文帝に仕えた賈誼(かぎ)の『新書』匈奴篇にやや詳しい記述あり。関市は特定の日に長城の傍らで開かれたが、その日には酒を売る者・食品を商う者など、200人ばかりの漢族商人が集まって店を開き、それを目当てに匈奴も多く姿を見せた、と。
 武帝が即位した時も、「和親の約束を明確にし、厚く匈奴を待遇し、関市によって通商し、多くの物資を供給したので、単于(ぜんう)以下みな漢に親しみ、長城付近に往来した。」(『史記』匈奴列伝、小竹文夫・武夫訳)
 しかし、漢と匈奴の善隣友好関係は、山西馬邑で起ったある事件によって突然破られます。
(緑の地球109号 2006年5月掲載)


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