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黄土高原史話<3>アンダーソン『黄土地帯』から始まった by谷口義介

 中国の考古学には、今でもアンダーソンの『黄土地帯』から入るのが常道。
 原名は〝大地の子〟ならぬ『黄土の子ら』。
 1932年にスウェーデン語で出版されて、34年に英訳。わが国ではこの英訳本にもとづいて、松崎寿和氏が42年に上記の名で翻訳・出版。当初より名著の誉れ高く、その後も影響力が強かったことは、松崎氏自身の『新黄土地帯』(60年)、賀川光夫氏の『黄土地帯紀行』 (84年)という書名や内容からも分かります。
 「黄土という怪奇な台地に中国大陸最古の人類文化が眠っている」(新版『黄土地帯』カバーの惹句)。
 黄土高原は確かに「怪奇な台地」、何ともロマンに満ちています。
 1914年、北京政府の鉱政顧問として訪中したアンダーソンは、地下資源の調査に従いつつ、せっせと内職(?)に励みます。山東省で恐竜の化石、黄河沿いで象や三趾馬の化石を採集。ついには北京郊外の周口店洞穴でシナントロプス・ペキネンシス、河南省仰韶村では新石器時代の土器と住居址。いずれも画期的な大発見です。
 仰韶村で見つけたのは、いわゆる彩陶と呼ばれるもの。アメリカのペンパリー探検隊が1903・4年、トルキスタンのアナウ遺跡で収集した彩文土器とよく似ています。そこで彼(=中国文明西方起源説)は、こう考えました。〝西アジアの彩文土器が中国に入ってきたと仮定すれば、その痕跡は中国の西の玄関口に残っているはずだ〟、と。
 1923年、アンダーソンは荷車に揺られて遥か甘粛省へ旅立ちます。河南から西へ、潼関を通って西安・平涼・蘭州へと(私はこのコースを列車とマイクロで行きました)。
 「このルートは、中国でも最大の黄土地帯を横断している。わたくしが心をひかれたのはこの黄土高原だった。というのは、河南省での経験から、仰韶文化が黄土地帯と密接な関係をもっていることを確信していたからである。」
 甘粛でアンダーソンは「仰韶期以前」のものを含む多数の彩文土器を採集・ 購入(写真)。仮説は実証されたかにみえました。しかし、その後の精密な土器編年により、甘粛の土器は仰韶出土のものよりむしろ新しいことが判明。 追い討ちをかけるように、仰韶より更に古い土器が河北省の磁山・河南省の裴李崗遺跡(共に前6000年頃)で見つかります。


 しかし、農耕がはじまった新石器時代の文化と黄土地帯の密接な関係は、まさしくアンダーソン指摘の通り。
 〝Children of the Yellow Earth〟が活動を始めるのは、この新石器時代からです。
(緑の地球81号(2001年9月発行)掲載分)


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