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黄土高原史話<44>「千年、河清を俟(ま)」たなくても by 谷口義介

 少しだけ前回に溯(さかのぼ)ると。
 「黄河の水が澄むことなどありえない」という通念は、「黄河」という名が出てくる以前、単に「河」と呼ばれていた春秋時代、すでに定着。だから、それを待つのは無駄なこと、の譬(たと)えとして用いられていたわけ。前漢の初めに「黄河」という名が初出。後漢に入って張衡(78~139)という科学者・詩人も、「河の清(す)めるを俟つも未だ期(あ)はず」(帰田賦))と歌っている。
 ところが、彼の死後20年ばかりたった桓帝の延熹八年(165)、
「夏四月、済陰・東郡・済北に河水清む」(『後漢書』孝桓帝紀)
また、翌九年(166)にも続けて、
「夏四月、済陰・東郡・済北・平原に河水清む」(同上)
という現象が。こりゃ何か不吉なことの前ぶれではと、襄楷という学者が桓帝に上疏。「河なる者は諸侯の位なり。清なる者は陽に属し、濁なる者は陰に属す。河は当(まさ)に濁るべきに而るに反(かへ)って清む者は、陰、陽と為らんと欲し、諸侯、帝と為らんと欲するなり」と、陰陽説に基づいて、警戒すべきを論じている。
 ところが、このあと東晋の王嘉(?~390頃)の『拾遺記』に、
「黄河は千年に一たび清む、至聖の君、以て大瑞と為す」
とみゆ。「千年、河清を俟つ」というフレーズの出典でしょうか。それはともかく、ここでは「河清」は目出度いことの瑞兆(ずいちょう)に。そこで南朝・宋の元嘉二十四年(449)、
「夏四月、河・済ともに清む」(『南史』宋本紀・文帝)
という現象が起きたとき、鮑照(413頃~466)がこれを吉兆だとして「河清頌」なる詩を作っている。唐代には張文という人が、太平の瑞祥とみなして「河清歌」を。
 めったにないことなので、吉・凶両極端に解釈されたのでしょう。


 ところが「河清」という現象、歴史記録を調べてみると、結構起っているのです。
 上掲した後漢の桓帝延熹八年(165)を皮切りに、清末の宣統元年(1909)までの1744年の間、実に54回も。約32年に1回という割合です。
 そのあとでは、1935年、山西省の石楼で水が澄み、河底が透けて見えた、と。
 昨年、つまり2008年にも黄河の水は澄みました。ネットでは、吉兆だとか凶兆だとか、喧(かまびす)しい議論が。
「河清」といっても上澄み程度のことで、部分的・短期的な現象でしょうが、黄帝の子孫で黄色をシンボル・カラーとする漢民族。黄河の水の色に対し、過剰反応を示すのかも。
 しかし、より本質的な問題は、なぜこうした自然現象が起こるのか。
(以下、次号)
(緑の地球126号 2009年3月掲載)

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