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黄土高原史話<43>延熹八年、河水清(す)む by 谷口義介

  黄河は世界一の泥川で、水1トン当り40キログラムのシルト(細砂と粘土の中間的な粗さの土粒子、粒径0.074~0.005ミリ)を含む。コロラド川の約2倍、ミシシッピ川の70倍。黄河のシルトの出どころは、その90%が黄土高原。むき出しの大地に降る雨が地表を削り、たまにある豪雨は激流となって土壌を押し流す。
 土砂が堆積した「三門峡ダムの失敗に学んだ中国の支配者たちは、黄土高原の浸食を食い止め、黄河を“清い流れ”にすることを夢見るようになった」。
 そこで大々的に展開されたのが、植林プロジェクト。甘粛省定県では「イトスギ」を植えたが、その効果は覿面(てきめん)で、「谷を流れているのは澄んだ水だけ」(同県土水局長の談)。
 しかし、「中国では、昔から、“水が澄んだなら”というのは“ありえないこと”を意味している」。
 以上、フレッド・ピアス『水の未来――世界の川が干上がるとき』(日経BP社)によった。
 そもそも、黄河は初めは単に「河」と呼ばれたが、『漢書』高恵高后文功臣表に「黄河」の名が初見。『爾雅』釈水篇に、“河は源流近くでは白色だが、多くの川が合流するので黄色くなった”。別の箇所では、「その受くる所の渠(きょ)多く、沙壌溷淆(こんこう)」せるをもって「水色は黄なり」と。つまり前漢時代(B.C. 202~A.D.8)には、シルトが大量に混入するから「黄河」という認識がすでにあったことになる。ちなみに前漢末、張戎という役人が、黄河は水1石に対し6斗が泥だ、と言っている。


 では、黄河が単に「河」と呼ばれていた頃は、水は澄んでいたのかどうか。
 『春秋左氏伝』の襄公8年(B.C. 565)に、子駟(しし)という鄭の貴族が、待つことができない譬(たと)えとして、
 「河の清(す)めるを俟(ま)つも、人寿は幾何(いくばく)ぞ」という「周詩」を引いている。逸詩だというからおそらく『詩経』からもれたもので、いわゆる黄河周辺の国振りの歌だろう。つまり春秋時代(B.C. 770~B.C. 403)には、「河」はいつも濁っていて澄むことはめったにない、という一般通念が存在したわけだ。
ところが、『詩経』魏風の伐檀(ばつだん)に、
 「河水清くして且つ漣(なみだ)つ」
と歌う。魏風は山西省南西部、いわゆる河曲に近いところ。「河水」は一時的、相対的に澄むこともあったのでしょう。
 山西省の西隣りの陝西省。渭水(いすい)が東流してきて黄河と合する少し手前で、渭水に涇水(けいすい)が合流するが(図参照)、『詩経』邶風(はいふう)の谷風に、
 「涇は渭を以て濁る」
と。つまり、水清き涇水も濁った渭水によって黄濁するというのだが、これは渭水盆地の開発が早くから進んでおり、対して陝北の山地を東南下してくる涇水流域にはまだ森林が繁茂していたことを意味しまいか。しかし、前漢末には、「涇水一石、その水数斗」(『漢書』溝洫(こうきょく)志)と。前漢一代200年、涇水もまた周辺部の開発により黄濁してしまったのでしょう。そして、「黄河」本流も「濁河」と呼ばれるようになったことは、北魏(386~534)の『水経注』河水篇により明らか。
 ところが、後漢(25~220)の桓帝延熹(えんき)八年(165)、「河水清む」と。
(この項つづく)
(緑の地球125号 2009年1月掲載)

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