黄土高原史話<8>黄土高原にとってヒツジとは by谷口義介
GENでは1998年、太行山脈の麓に霊丘自然植物園を建設。
総面積86ha、標高900~1300mと、高低差あり地形の変化に恵まれ、植物園にはまさにうってつけ。苗木づくりや果樹栽培、寒さと乾燥に強い外来樹種を実験的に導入していますが、その際、最もやっかいなのはヤギやヒツジの放牧。緑のない季節には、苗はもとより成木の樹皮までかじってしまうからです。そのため、近隣の村とも話を通し、侵入防止用に棘のある潅木を柵代わりに植えて囲っています。家畜の食害がなくなると、植物は徐々に本来の姿を取り戻し、黄土高原の緑化の筋道も辿れるというわけ。
ワーキング・ツアーで数回訪れましたが、年ごとに緑が厚くなってゆくのを実感。植樹作業にも力が入ります。
このように緑化にとっては憎っくき敵でも、黄土高原(北部)の人々には、ヒツジやヤギ(特にヒツジ)は歴史的に恩恵を蒙った動物でした。
B.C.6500年頃、西アジアの北半部分で家畜化されたヒツジは、B.C.3000年前後、ムギと共に入ってきたようです。新石器時代後期の龍山文化段階(B.C.2600~1900)で本格的な飼育が始まりますが、黄河流域の陝西・山西・河南各省よりもむしろ甘粛やモンゴル高原で卓越するのは、草原が広がる生態的環境に適応したためか。甘粛から内蒙古、黄土高原の北部にかけては、アワやキビに比べ耐乾性の劣るムギの栽培よりは、ヒツジの飼育の方が受け入れやすかったのでしょう。
殷代(B.C.1600~1055)、甲骨文には羌姓の牧羊族を捕えて犠牲として供える記事が散見しますが、それは黄河周辺の丘陵地までヒツジの牧畜民が南下していたことを示します。
牧畜専業でない一般の農耕集落でも、ヒツジは飼われていました。
春秋時代(B.C.722~481)初期、洛陽近郊の農村を舞台とした『詩経』王風・君子于役の歌(第一章)。
君子 役にゆく、その期を知らず。
いつか至らんや。鶏はねぐらに棲み、
日の夕べ、羊・牛は下り来たる。
君子 役にゆく、如何ぞ思うことなからんや。
“日暮れどき、ニワトリはねぐらに、ヒツジやウシも丘の辺から戻ってくるが、夫は役に駆り出されたまま、いつ帰るともわからない”。この詩から、黄土高原南端の農村でも、ウシやニワトリと共に、ヒツジが普通に飼われていたことがわかります。
(緑の地球86(2002年7月発行)掲載分)