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黄土高原史話 by 谷口義介

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書き手:谷口義介(GEN会員) 研究分野は東アジア古代史・日中比較文化。寄る年波、海外のフィールドはきつくなり、いまは滋賀の田舎町で里山保全の活動。会報に「史話」100回のあと、…
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2024年4月の記事一覧

黄土高原史話<46>緑化のしすぎが断流のもと? by 谷口義介

 中華の民にとって黄河はまさしく母なる河。だから、ふだん黄色いこの河が澄んだといっては、大騒ぎ。08年、壺口瀑布の上流で河清現象が見られたとき、凶事が起る前触れか、あるいは聖人出現の予兆かと、古典を引きつつ、ネット上で喧(かまびす)し。まして、黄河の流れが絶えでもしたら、国家的な大問題。ところが、1972年、史上初めて起ってから、下流まで水の届かない断流が続発、97年にはピークに達し、330日間も水が涸れた。これは由々(ゆゆ)しき大事だと、2000年、政府は所管の部署に命令し

黄土高原史話<45>「河清」はやはり植林で by 谷口義介

 人あり、王星光・彭勇「歴史時期的“黄河清”現象初探」(『史学月刊』2002年第9期)と、汪前進「黄河河水変清年表」(『広西民族学院学報(自然科学版)』第12巻第2期、2006年5月)を送ってくれました。これをベースに数え直すと、「河清」なる現象、後漢の桓帝延熹八年(165)から昨2008年までの1843年間に111回、つまり約17年に1回の割合で起っている。したがって前回、「約32年に1回」と書いたのは、お詫びのうえ訂正ということに。  2論文が引く資料によると、「河清」は

黄土高原史話<44>「千年、河清を俟(ま)」たなくても by 谷口義介

 少しだけ前回に溯(さかのぼ)ると。  「黄河の水が澄むことなどありえない」という通念は、「黄河」という名が出てくる以前、単に「河」と呼ばれていた春秋時代、すでに定着。だから、それを待つのは無駄なこと、の譬(たと)えとして用いられていたわけ。前漢の初めに「黄河」という名が初出。後漢に入って張衡(78~139)という科学者・詩人も、「河の清(す)めるを俟つも未だ期(あ)はず」(帰田賦))と歌っている。  ところが、彼の死後20年ばかりたった桓帝の延熹八年(165)、 「夏四月、