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黄土高原史話 by 谷口義介

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書き手:谷口義介(GEN会員) 研究分野は東アジア古代史・日中比較文化。寄る年波、海外のフィールドはきつくなり、いまは滋賀の田舎町で里山保全の活動。会報に「史話」100回のあと、…
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2023年12月の記事一覧

黄土高原史話<34>謊糧堆(ホワンリヤンドウイ)の正体は? by 谷口義介

 大同市の中心部から北東へ約50キロ。陽高県には、2000年夏のワーキングツアーで一度行ったことが。その北端、守口堡(しゅこうほ)村で長城に登れば、眼下はすぐに内蒙古。尾根上には点々と、はるか彼方まで烽火台。長城線を背に、途中白登河(はくとうが)を渡って東南へ数十キロ、前方に桑乾河*を望む手前に許家窰遺跡あり。10万年前、旧石器時代中期と推定され、本シリーズ<2>でふれたところです。  これを少し戻ると、今回述べる古城堡(こじょうほ)漢墓群。その数、大・小あわせて100基ほど

黄土高原史話<33>「大夫、勃然として色を作し」 by 谷口義介

 B.C.87年、武帝71歳で崩御。あとを嗣いだのは63歳のときできた末子で、即位時わずか8歳の昭帝。この少年皇帝を支えるべく遺嘱を受けたのが、二十年余そば近くに侍していた霍光・金日暺(きんじってい) ・上官桀の3人です。光は身長168センチと中肉で色白、日ていは容貌厳として体躯雄偉、桀は無双の怪力、と。  天子の側近を内朝といい、皇帝と皇室を守るのが役目なので、武帝はこの3人に後事を託したわけ。ところが、昭帝即位して一年余、万事ひかえめだった日ていが病死してから、残る二人の

黄土高原史話<32>漢と匈奴の攻防は by 谷口義介

 吉川幸次郎先生の『漢の武帝』。各章ごとのタイトルが「阿嬌(あきょう)」「匈奴」「賢良」「西域(さいいき)」「神仙」と並びますが、これはア行・カ行・サ行の順を踏んだもの。博士の周辺から漏れ聞いた話です。 それはともかく、問題は匈奴。  漢初以来の弱腰外交に不満があったうえ、前回述べた馬邑(ばゆう)事件の大失敗。腹わたの煮えくり返った若き武帝、4年後のB.C.129年、1人の男を車騎将軍に任じます。これぞ翌年、武帝の子を生んで皇后となる衛子夫(えいしふ)の弟ながら、微賤の出の衛

黄土高原史話<31>「馬邑の役が導火線」 by 谷口義介

「馬」は文字どおり馬の象形。ただし甲骨文字ができたころ、体高140センチ足らずで頭でっかち、頑丈な骨格。殷墟出土の100体ばかりの観察によれば、現代のモンゴル馬に似た感じとか。「邑」は会意の字で、上のロは城壁のめぐる形、下の巴は人がひざまづく形で、あわせて城中に人の集住するさま。つまり、むら・まち・みやこという意味です。 しかして<馬>は遊牧騎馬生活の、<邑>は定住農耕社会の、それぞれ象徴とはいえまいか。  『史記』匈奴列伝にいう。  畜牧に随(したが)ひて転移し、その畜