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感染拡大と小説の読み方

某ウイルスの感染が広がる前と後で、自分の小説の読み方が少し変えられてしまったことに気づいたので、記事に書くことにした。

一言で言ってしまうと、感染が広がった後では、自分が小説を読んでいるときに、その小説が感染拡大以前に書かれた小説であっても、登場人物の感染リスクなどについて、気にかけてしまうようになった。

きっかけ

最初にこの現象に気がついたのは、村上龍「限りなく透明に近いブルー」を読んでいたときだ。これは村上龍のデビュー作で、米軍基地の街で、アルコールとセックスとドラッグに明け暮れる若者たちを描いている。

作中で主人公たちが、乱交パーティーに参加するシーンがある。自分はこのシーンの描写を読んで「こんなイベントを開催したら、一発でクラスター発生してしまうんじゃないか?」と考えてしまった。

もちろん、落ち着いて考えれば、この小説が発行されたのは1970年代で、コロナウィルスのコの字もない時代だ。その時代の小説を読んで、コロナウィルスがどうのこうのと考えるのは馬鹿げているし、著者も、当然そんなことは想定せずに執筆したはずだ。作者も作品もまったく悪くない。自分は、まったく本筋からずれた読み方をしてしまっている。

しかし、頭ではそう分かっていても、小説を読むときに、この現象はたびたび起こった。大勢の人が集まって大声を上げるライブ、居酒屋で飲んだくれる人々、派手に接触をするスポーツ、そういう描写を見るたびに、登場人物たちが感染することを考えてしまう。そしてすぐに「これは小説だ。感染とは関係ない」と、自分の考えを打ち消す。

おそらく、感染を心配しながら過ごす日常を、自分はもう当たり前のものとして受け入れてしまっている。だから、小説を読む時にも、自分のその日常を、無意識に小説の世界にも適用してしまっている。小説の側からしたら、いい迷惑だろうと思う。

感染拡大の前と後

コロナが感染拡大する以前は、こんな余計なことを考えずに小説の世界に入っていくことができた。少なくとも、現代日本を舞台にした小説を読んでいるときは、自分の身近な生活の、延長線上の世界を見ている感覚があった。

今となってはもう、小説を読んでいる途中で、たびたび脳裏に「感染」の2文字がちらついてしまう。「あぁ、この小説の中の世界ではマスクをつけなくていいし、距離もとらなくていいんだな」などと余計なこと考えてしまう。その世界は、自分の身近な世界という感じは薄まって、少し遠い世界に思えてくる。

小説を読むときに、純粋に小説を楽しんで没入しようとする思考のなかに、ふっと感染のことやら距離のことを考える思考が混ざってくる。ちょうど、何らかの作業に集中しようとしている時に、どこからか関係ない雑音が聞こえてきて邪魔をされる時のストレスに似ている。

どう向き合うべきか

この現象に対して、どう向き合うべきなんだろう。

「感染のことは考えないようにしよう」と意識するのはきっと逆効果だろう。「シロクマのことだけは絶対考えないでください」と言われた人は、逆に強くシロクマのことを意識してしまう、という研究を聞いたことがある。

そういう消極的な方法よりは、積極的な方法をとるべきなんだろうと思う。小説を読む時は、小説の舞台の背景を詳しく調べて、よりその世界に入り込めるようにする。同じ小説を読んだ人と、感想を共有する。読んだ本の魅力を整理して、人に推せるレベルまで持っていく。

こういう積み重ねをすることで、読書体験の満足度を上げることができるだろう。読書をするときの、感染うんぬんの余計な思考を完全に消すことはできないにしても、その影響力を相対的に減らすことはできるのではないかと思う。



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