Pretend
彼女は強い。
と、皆は言う。
でも、僕は違う。
彼女は、「強く」見せている。
仕事をしている彼女はバリバリのキャリアウーマンそのものだ。後輩の面倒見もいいし、上司からの信頼も厚い。
僕と買い物に行った帰り道、いつも彼女は僕の手から5kgの米が入ったレジ袋を強奪し、ふふっと笑ってみせる。
ジェットコースターに乗っても、お化け屋敷に行っても、僕より怖がらない。むしろ、僕を守るかのような立ち回りをしてる。まあ、僕が怖がりすぎなのもあるのかもしれないけど。
彼女は、強い。
それは間違いない。
でも違う。
弱さゆえの「強さ」だと、僕は知っている。
気でいる。
彼女と付き合ってもう2年になるだろうか。
あの時、給湯室で一瞬だけ見せた、淋しい目を僕は鮮明に憶えている。
「ひとり親なんだ、私」
今どきひとり親などさして珍しい話でもないだろう。星の数ほどいる。
僕もひとり親だし。
でも、僕の場合は割と両親の関係が良好だったと聞いている。
僕の母は癌で死んだ。僕が13歳の時だ。
それから父親と二人三脚で暮らしてきた。
父親はとにかく家事ができるし、仕事終わりによく僕とも話をしてくれた。気にかけてくれた。母親と仲が良かったのも頷ける。
父親が僕をひとりで育てる大変さも知っていた(つもりだけど)から、父親に反抗することもなかった。
ひとり親の中でも僕は、多分恵まれていた。
でも彼女は違った。
趣味が同じ(ドライブとMr.Childrenの曲を聴くこと)だったのもあって、職場でたまたま知り合ってから僕と彼女は意気投合した。
まるで、それが当然であったかのように僕達は付き合った。
大袈裟だとも馬鹿らしいとも思うけど、本当に運命だと思った。
先程書いたように、彼女は強い。そして、人に優しい。そんな彼女を僕が好きにならない筈はなかった。
彼女の昔の話を聞いたのは、付き合ってから2ヶ月のことだった。
「今日は私の勝ち〜!」
とびっきりの笑顔で彼女は僕にそう言う。
「相変わらず、君は本当に速いな」
家までの競走に負けた。彼女は運動神経が良い。僕の3倍は良いだろう。
パワプロで彼女の走力がAだとしたら、僕はEだ。
そのくらい速い。
僕は見逃さない。
と言うよりも、ずっと、ずっとそうなのだ。
瞳の奥の奥が、笑っていない。
鉛にも似た何かだ。
何か、と言うのか、壁、とでも言うべきか。
「私、あなたのことが本当に好き。それだけは信じて」
「でも、同時にあなたに伝えたいことがある」
「私は、人間が怖い」
私は、人間が、怖い。
もうどこから話をすればいいか分からない。
目の前の彼氏でさえ、こんなに好きだし、心の底から愛しているし、結婚したいと嘘偽りない気持ちで思っているのに、
怖い。
小学校の頃、両親が離婚した。
原因は、父親にあった。
私は、実の父親は「父親」、再婚の父は「父」と呼ぶことを徹底している。
父はどう間違っても、地球の北極と南極がひっくり返ろうと、公転軸の傾きが30°になろうと、太陽が大規模爆発を起こそうと、「親」とは呼称しない。
父親の離婚の話は、多分そんなに詳しく話さなくてもいいと思うけれど、一応話しておくことにする。
父親は、母方の実家が営む会社で働いていた。小さな町工場みたいな所だった。
そこで父親は働いていた。母方の祖父は、いずれ父親に会社を継がせようと考えていたらしい。
そんな祖父の期待を裏切り嘲笑うかのように、父親は遅刻をよくした。
勤務態度はそこまで悪くなかったらしいが、他にもいくつか良くない点があったらしく、母方の祖父と祖母が、母親に離婚することを懇願したらしい。
両親が離婚し父親がひとりになった後、父親は祖父の会社をクビになったという。
家での父親は母にも私にもとても優しく、理想の父親だな、とさえ思っていたから、そのような理由で離婚したことは世間知らずな小学生の私にとって衝撃だった。
父親の記憶はそれくらい。
母親は父と再婚した。
父は最初は良い人だった。妻にも、その連れ子である私にも。
最初の1ヶ月は。
父はそれから私に暴力をふるうようになった。ありがちな話、というかよく聞く話だと思うけれど。
私が宿題をしなければフォークが飛んできた。
テストの点が悪ければ拳が突き当たった。
少しでも口ごたえをすれば脚が伸びた(鈍い痛みを感じつつ「サワムラーかよ…」とせめてものツッコミを心の中でしたことは誰にも言っていない秘密だ)。
ただ、その暴力は私に対してだけだった。
母親にも勿論酷いことはたくさんしていた(給料をパチンコや競馬に使い込んで借金を増やすわ、母親が服を1着買っただけでその服が幾らか厳しく問い詰めるわ、の癖に自分は酒とタバコを大量に買うわ、ほかの女と会ってヤってたわ、それでいて離婚は絶対しないと言い切るわ、散々だった)けれど、決して手は出さなかった。
そこが卑怯だった。
ダブルでクズな父が、「人間が怖い」という私の根幹に深く関わっているのは間違いないと思う。
まあ、ここまでは良くある話だ。それは私も承知している。
良くある話、っていうのもおかしな世の中だけれども。
まあ、ひとつだけあまりないことがあるとすれば、父を見かねて母親が突如失踪したことだろうか。
母が失踪してから半年だけ頑張って父と暮らした。
運良く、就職先も決まっていたから、半年後にひとり暮らしを始め、父とは一切の連絡を絶った。
母親とは失踪したっきりだ。
何処に行ったのかも分からないし、そもそも生きているか死んでいるのかすら分からない。
人間が怖いのは、父のせいだけではない。
高校生の時、私はいじめを受けていた。
これもよくある話で、トイレに居る時に水をかけられたり、お弁当を床に叩きつけられたり、上履きは砂でパンパンになっていたり。
まるで予定調和のように、先生、クラスメイト、それを止める者は誰もいなかった。
もういいか。これ以上言う必要もないか。
ここまで言えばもう分かるだろう。
私は、人間が怖い。
僕は、よくある、という話を目の当たりにするのは初めてだった。
目の前の彼女は、今は普通に人と話せるけどね、と呟いて力なく笑った。
彼女の心の鉛のような壁を、壊したい。
僕はそう思った。いや、壊すと誓った。僕が彼女の傍に居る。彼女の光になる。
その日は、映画館に来ていた。
医療系の映画だったと記憶している。
僕は、単純に「感動したな〜」と思った。
そんな感じで、彼女に何気なくそれっぽい感想を思ったままに伝えた。
彼女は一言だけ言った。
「こんな綺麗な世界なんてないよ」
初めてのキスを、彼女は拒んだ。
「本当にごめん、ちょっとだけ、ちょっとだけ、怖い」
私には、そんなことを言うつもりはなかった。
彼に心配をさせられない。だからこそ、そんなことは言わないつもりだった。
彼が悪い訳では全くないのだ。むしろ、優しい彼に対しても「怖い」という感情を捨てきれない私がいけないのだ。
私が悪い。
久しぶりに彼女が僕の部屋に遊びに来た。
何をしてたっけ。
いつの間にか、横に一緒にいた彼女が寝た。
透き通るような美しい顔、漏れる寝息。
僕も思わず「可愛い…」と漏らした。
今も彼女は人間への恐怖心に苛まれているのか。やるせない。
自分の無力さを痛感する。
地獄のメインアトラクションとして名を馳せる、あの針山を素足で登らされているようだ。
彼女の名前を呼んでみた。
今までに発した声の中で1番小さく、消え入りそうな声だった。
彼女への罪悪感の具現化であった。
彼女はひとりで闘っている。
僕は願う。
僕だけでいい。ほかの人間はどうでもいい。
僕のことだけは、真っ直ぐに見つめてくれないか。「怖い」のは分かる。でも。
彼女は、たまに夜、電話をかけてくる。
ただぽつりぽつりと静かな声で、彼女が僕に語りかけてくる。僕はそれをただ、聞くに徹する。
聞くプラネタリウムだ。
彼女の声は星となって煌めく。波となって心を洗い流す。
そんな訳で、ASMRと検索したことは1度もない。幸い、僕には間に合っている。そんなことを言ったら、彼女は少し照れて、
「何言ってんの〜」
と笑うんだろうな。
たまに、僕に相談の電話をしてくることもある。
勿論、ちゃんと相談に乗るし、こうすればいいんじゃない?と提案してみたりもする。彼女は言ってスッキリするタイプの人ではなく、相談して解決策を探すタイプの人だからだ。
どちらに転んでもいいように、僕はしっかり心の準備を済ませている。ダブルヘッダーのつもりで用意をしておけば、出てきた方に僕が合わせに行けばいい。
なんてちょっと訳の分からないことを言ってみたけど、僕はとにかく彼女からの電話がいつかかってきても、だいたい取れるようにしている。
彼女が好きで。
なんか惚気みたいになってしまって申し訳ない。
お互いに重いと思われるかもしれないが、僕も彼女もそれで苦じゃないし、それで2年近くやってきてるし、それでいいのだろう。
彼女は人当たりがいい。
多くの人と友人関係にある。
僕は内向的な性格で、もともと友達が少ない。
彼女と付き合ってからは、彼女のことが最優先になった。少ない友達と絡む機会も少なくなった。今でも遊んでいる友達も、僕の考えに似て恋人優先、と言っている人ばかりだから、上手くいっている。
だけど、僕は彼女に嫉妬したりはしない。
その社交性の高さは彼女の努力の賜物であるから。そうすることで、彼女自身の壊れそうな心を守っているから。
彼女は僕の人付き合いの悪さ(悪い訳ではないのだけど)をどう思っているのだろうか。
私は人間が怖い。
でも、「友達」は多い。
「友達」は、私を護ってくれる。
高校の頃の私は、学校に味方がいなかった。父に苦しむ母親に、そんなことを考えさせたくはなかった。
明るく、人に優しくすれば、「友達」は簡単にできる。「友達」は役に立つし、信用はしている。
でも、信頼はできない。
人間は変わるのだ。
万物は流転する、と遠い昔に誰かが言っていたらしい。
人間の心も万物に含まれると私は思う。
今が永遠に続くとは限らないのだ。
彼も、どんなに私にとってはたった1人の素敵な恋人でも、宇宙から見れば、もっと狭めて世間から見たら、万物に過ぎない。
流転する…?
化けの皮を1ヶ月で剥がした父。
あれも流転なのか。
…ああ、もう考えるのが嫌になってきた。人間は考える葦であるとはよく言ったものだ。葦になって何も考えずに生きたいよ。
彼氏に電話をしよう。今日も出てくれるのだろうか。
彼は変わらない、と言ってくれるから。
変わるかもしれない、その不安はずっとあるけど。
彼女がおやすみ、と言い、電話を切ったことを意味もなく指差し確認し、通話終了を知らせる無機質な音が鳴ったのと同時に、携帯電話をテーブルの上に置く。
今日の彼女はヘラクレイトスの話をしていた。懐かしい。珍しい。
何かあったのだろうか。
そんな瑣末なことを考えながら、そろそろ干さないといけない敷布団の上に寝転がる。
いや、まだ寝るには早いか。
つい最近始めたばかりのギター。それなりにいいギターらしい。同僚に選んでもらった。楽譜も豪華に3冊買った。たまにはこんな豪遊もいいだろう。
まあまあなお金を投資して始めてみたものの、始めたばかりだから上手く弾けるはずもない。基礎から練習しているが、なかなかこの基礎練が辛いものだ。
気づけば1時間ほど練習していた。一旦休む。
ボーッとしていたら、急に彼女のことが頭に浮かんできた。
とんでもなく臭いけど、ラブソング、歌っちゃおうかな。Mr.Childrenの「君が好き」が確か楽譜にあったな。
楽譜のページをめくる。乾いた音が、いつもより大きく聴こえた。
意気込んで弾き語ろうとしたはいいものの、やはり技術不足で上手く弾けない。
歌はそれなりに得意だからいいのだが、弾き語り肝心のギターが全く追いつかない。3馬身差はあるだろう。
いつの間にか六弦の上で、指が千鳥足で踊るタップダンスのように絡まっていた。
そんな指を見て、僕は思わず笑った。
そして、笑いは刹那に終わった。
唐突に、その指が僕と彼女の関係に見えたのだ。
心の中で、龍に似た何かが暴れ狂った。
もどかしさ?苛立ち?無念さ?
どす黒い津波に巻き込まれた家屋がバキバキとけたたましい音を上げて倒壊していく、あの映像が一瞬フラッシュバックした。
濁流に絡んだ指が流される。
流された指は、震えながらも確かに弦をかき鳴らしていた。
自分でも驚くくらい、「上手に」弾けていた。
気づいたら、夜が明けていた。
右手の指も左手の指も、痛くて仕方がなかった。
外で鳴く鳥がやけにうるさく感じた。
ギターを少し強めに、ソファーの上に投げ捨てた。
彼女の名前を呼んでみた。
いつもより声を張った。いや、張れた。
僕が弱気になってどうする。
僕がしっかり待っていればいいじゃないか。
彼女が1歩ずつ、僕に向かって歩んでくるのを。
そしていつか、彼女が僕を「怖い」と感じなくなるその日を。
だって、ヘラクレイトスが言っていたじゃないか。
万物は流転する、って。
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前回に引き続き?
なんかそれっぽい何かを書いてみました。1週間、暇な時に書いてました(なら勉強するかラジオのTF進めろよ)。
曲をフィクション作品(?)にしてみました。
原曲は何か、お時間のある方は考えて見てください。それでは、炊きがちな玄米でした。
最後までお読み頂いた方がいらっしゃいましたら、感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。
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