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『アルフィエーリ悲劇選 フィリッポ サウル』訳者解題(text by 菅野類)

 2020年4月24日、幻戯書房は『アルフィエーリ悲劇選 フィリッポ サウル』を刊行いたします。
 ヴィットーリオ・アルフィエーリは、ロマン主義の先駆的詩人として知られ、18世紀イタリア代表する悲劇作家として19もの悲劇作品を残しています。本書はアルフィエーリの悲劇作品から、傑作として誉れ高い『フィリッポ』『サウル』の2作を選んだものです。「意志」の力で己の葛藤を越えていくその作風は、当時のイタリアでは、シェイクスピアの作品にも比肩されたそうです。また、女性と孤独を愛し、情熱と憂愁の狭間を揺れ動き、ヨーロッパ各地を転々としたアルフィエーリの生き方そのものは、彼の作品とともに、フランスの文豪スタンダールに享受され、ギリシア独立戦争に身を投じて命を落としたイギリスの詩人バイロンに影響を与えています。
 以下に公開するのは、訳者・菅野類さんによる「訳者解題」の一節です。

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アルフィエーリの作劇術

『自伝』でも語られているように、少年期・青年期を通じて学問や教養にさほどの関心を向けず、文学の味わいとは縁遠い放蕩(ほうとう)貴族の日々を送っていた様子からは、アルフィエーリを生まれながらの詩人とは呼べそうにない。散発的に文芸作品に触れる機会があったとしても、せいぜいそれはフランス小説か音楽劇であった。したがって、文学の世界とはあまり接点のなかったアルフィエーリが、しかもよりによって悲劇という先人の成功例に乏しいジャンルを選んだのを目の当たりにする時、私たちはそれを説明しうる明確な理由を見出すことができないのである。とはいえ、その困難な状況こそが、格式の高いジャンルと認められながらも先人が傑作を生みだせずにあがき続けてきたという状況こそが、26歳のアルフィエーリの胸に若者らしい野心をたぎらせる呼び水になったということは言えそうである。

 演劇作品を書く経験を持たなかったアルフィエーリが出発点において拠り所としたのは、イタリア悲劇の伝統ではなく、フランス古典演劇のそれであった。作品の質と量、そして知名度の観点からいえば当然ともいえるが、加えてピエモンテ地方はフランスに近くその文化的影響を受けやすい場所にあり、アルフィエーリがイタリアの文芸作品よりもフランスのそれに多く触れる機会はなおさら多かったのである。したがって、初期作品の『クレオパトラ』や『フィリッポ Filippo』(1783年出版)を書き始めた我らの作家が「恋」を筋の中心に据えたのはごく自然な流れであった。フランス演劇では過去の王家の人々の恋愛感情を軸に悲劇の筋を組み立てる傾向が強い。これは、恋の情念が不合理な行動を登場人物にとらせるのに都合が良かったことが最大の理由であろうが、作品の多くが女性を含む宮廷人を主な観客層と想定して書かれたために生じた傾向とも考えられる。アルフィエーリの習作的悲劇『クレオパトラ』は野心家のクレオパトラとそのクレオパトラの虜となったアントニオの不平等な恋愛関係が主題であったし、その次の『フィリッポ』の草稿版も、イザベッラとカルロのあわれな恋模様を描くことに重きを置いていた。しかし、先にも述べたように、恋愛模様を描くことに偏りすぎたフランス演劇の傾向はイタリアの文人から揶揄の対象ともなっていた。アルフィエーリも本質的にはそうした価値観を共有していたようで、ほどなくして恋愛をテーマの中心に置くことをやめ、より勇壮な英雄主義を強めていくことになる。特に、最後に書かれた二つの悲劇『第一ブルート Bruto primo』(1789年出版)と『第二ブルート』では女性の姿さえない。

 フランス古典演劇の特徴として、登場人物が多弁であることも挙げられる。登場人物が何を考えているのか、彼らが置かれている状況がどのようなものなのかは、その都度彼ら自身の言葉を通じて余すところなく語られるのだ。ラシーヌの『フェードル』と『アンドロマック』を訳した渡邊守章氏は、絶対王政期の17世紀のフランスで、新興階級たる町人層が文化的領域に進出することができたのは、まさに「言葉」という武器を通じてであったと述べている(『フェードル アンドロマック』解説、岩波文庫、367‐369頁)。悲劇の書き手もその新興階級に属する以上、演劇世界を徹底的に「言葉」で表現しつくそうとする強力な指向性の背後には、「言葉」の持つ力への信頼とそれを操る自らの力量に対する自負があったと考えることもできるだろう。

 その都度すべてを言葉に置き換えるという手法は、しかしながら一部の文人からは不満の対象でもあった。例えば、18世紀のイタリアを代表する啓蒙主義者ピエトロ・ヴェッリ(1728‐97)は、フランス演劇の多弁な性格について以下のような不満を伝えている。

シェイクスピアが演じ手の性格を無遠慮に分かりやすく描くことは決してない。そこには常に霧が漂っているのだ。反対にフランス人作家は、演じ手が放つ最初の言葉から、その者の性格をはっきりと分からせようとする。こうも易々と自分の内面を明らかにする人間が、この世のどこにいるというのか?

 すべてを言葉に置き換えて観客に伝えようするそれまでの演劇上の約束事が、ここでは現実離れしているという観点から批判の対象になっているのだ。

 とはいえ、初期のアルフィエーリはやはりフランス的手法を踏襲する形で作品を組み立てている。例として、一七七五年に書かれた『フィリッポ』の散文草稿のある独白部分を引用しよう。暴君フィリッポの卑しく邪な内面は、登場して間もなく本人の口を通して直接的に伝えられる。

フィリッポ
 北極から南極の間に、並び立つ相手を求めても空しいだけのお前よ、その広大な領土の地平には輝く太陽を必ず見ることのできるお前よ、なのにその身が陰らされるのを目の当たりにするのか? お前の王宮で、しかも誰によってか? お前の息子その人によってだぞ。恩知らずの邪悪な息子。命を与えたことが恥に思える化け物だ。やつをこの世に送りだしたのは、我が日々を不幸と災いの日々に変えるためでしかなかった。
 そうなのだ、無念にもそれが事実なのだ。カルロは敬意を装いつつわしの正体を見抜き、大胆にも軽蔑している。ヨーロッパが、世界中が、慄(おのの)きと感嘆の眼差しでわしを敬っているのに、そして、最も賢明で、公平で、正しい王とみなし敬っているのに、息子が、不敵にも、世界から私の正体を隠してくれるヴェールを、その冒涜の手で引き裂こうというのか? あの王子を憎たらしく、そして耐え難く思うのに、これほどに常軌を逸した厚かましさだけで足りぬというのか? だが、奴の罪はこれだけか? いや。奴はより邪悪な厚かましさで罪を働いている。奴が憎く思えるより強力な理由、それを自分で口にすることは大いにためらわれる。その理由の重大さに比して、我が誇りが大きく傷つけられる。我が心中で燃える怒りが増大する。言わねばならぬのか? カルロは我が王妃に胸を焦がしている。おお、狂わんばかりの怒り、おお、何と恐ろしい疑惑よ。しかも、より重大なのは、カルロも同様に愛されているということだ。

 このように、フィリッポが息子であるカルロをなぜそこまで憎んでいるのか、なぜ死に追いやろうとしているのか、その動機が複数の嫉妬心であることが最初から「自白」の形で説明されるのである。ところが、完成版からは上述のような分かりやすい独白部分は姿を消し、第二幕の冒頭と最後で交わされる腹心ゴメツとの短く不明瞭なやり取りのみが配されることとなる。それらを通じて彼らが何か不穏な計画を企んでいることは窺えても、果たしてそれが何なのか、動機が何なのかは分からないままだ。だが、フランス演劇とは対照的なそうした「不明瞭さ」こそが、アルフィエーリ悲劇に特徴的なサスペンス性を高めることに貢献しているのである。言葉による逐一の表現という手法からは距離を取り、一見して分かりにくいものの、筋を追ううちに事の真相が明らかになるような組み立てや台詞回しこそ、アルフィエーリ悲劇の歴史的な新しさなのである。アルフィエーリ本人も『自伝』で父に恋した娘の悲劇『ミッラ』に触れながら次のように述べている。

もしも、不義というよりはとにかく不幸なミッラの、恋の炎に燃えているその純粋な心に吹き荒れる無数のおぞましい嵐を、観客が少しずつ見つけ出すように扱えるのであれば、非常に感動的で独創的な悲劇となるように思われた。そしてそれは、かくも道ならぬ恋を、他人にはもちろんのこと、自分自身に対してさえも打ち明けさせず、その半分さえも仄めかせないようにしてなのである。(『自伝』第4期第14章)

 あえてすべてを語らず登場人物の内面を「少しずつ」観客に見出させる手法は『ミッラ』に限ったことではない。おおよそ他のすべての作品にも当てはまるのであり、アルフィエーリの作劇術のいわば根幹をなしているのである。

 登場人物の内面が「不透明な」こととも関連するが、彼らの台詞が従来の悲劇と比べて非常に短く、途切れがちなことも大きな特徴である。『フィリッポ』の第二幕におけるフィリッポとゴメツのやり取りはその典型であるし、また、本書には収められていないものの、当時の人々を驚かせたのが『アンティゴネ Antigone』(1783年出版)という作品の第四幕冒頭である。エディッポ(オイディプス)の娘であるアンティゴネ(アンティゴネー)は、野ざらしにされた父の亡骸を禁令に背いて埋葬し、死罪を言い渡される。しかし、暴君クレオンテは息子のエモンがアンティゴネを愛していることを知り、息子との結婚に応じるならば死罪を免ずるとの条件を出す。回答を求めるクレオンテにアンティゴネは堂々と答える。

クレオンテ   決めたか?
アンティゴネ  ええ。
クレオンテ   エモンか?
アンティゴネ  死を。
クレオンテ   望みどおりに。

 映画や漫画なども含めた様々な文芸の発展の果実を味わっている現代の我々には特別珍しいやり取りとは映らないかもしれない。しかし、多弁であることが一般的だったフランス演劇と比較するならば、台詞を極限まで切り詰めることによって表現の力強さと余韻を高める手法が当時の人々に新鮮な驚きを与えたであろうことは十分に想像されるのではないだろうか。

【目次】
フィリッポ
サウル

 附論
 フランチェスコ・デ・サンクティス『イタリア文学の歴史』(抄訳)
 ベネデット・クローチェ『詩と詩にあらざるもの』(抄訳)

 ヴィットーリオ・アルフィエーリ[1749–1803]年譜
 訳者解題
【訳者紹介】
菅野類(かんの・るい)
1975年、宮城県白石市生まれ。京都大学文学部文献文化学専攻イタリア語学イタリア文学専修研究指導認定退学。現在、京都大学ほか講師。専門は18世紀イタリア文学(悲劇および小説)。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。本篇はぜひ、『アルフィエーリ悲劇選 フィリッポ サウル』をご覧ください。

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