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神山睦美『終わりなき漱石』刊行記念「はじめに」全文公開

 2019年10月25日。
 幻戯書房は、神山睦美さんの評論集『終わりなき漱石』を刊行いたしました。
 本書は、著者が初の単著『夏目漱石論―序説』(1980)以来書き継いできた、『「それから」から「明暗」へ』(1982)、『夏目漱石は思想家である』(2007)、『漱石の俳句・漢詩』(2011)という四冊の漱石論をベースに、新たに一貫したモティーフのもと、大幅改稿のうえ論じ直した1000頁を超える大作です。
 なぜ今、夏目漱石を論じるのか――著者の神山さんは「あとがき」にこう書いています。
2011年の東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故をきっかけに、その文学的・思想的意味を論じた『希望のエートス 3・11以後』を上梓した後、にわかに漱石の『文学論』について論じてみたいという思いに駆られた。文学とは、自然災害に限らない災厄が人間精神に及ぼす力を、言葉で表現するものではないかというのが、そこで考えたことだった。もしかして、漱石は、同じことを『文学論』で考察しようとしたのではないかということに気がついたのである。(……)
 出来上がってみると、これまで書き続けてきた漱石についての論考や批評・鑑賞が、ここに集約されるのではないかと思われてきた。だが、それを明らかにするためには、改めて読み直し、編集し、書き直すということを行わなければならない。気の遠くなるような作業に思われたが、それによって『文学論』についての論考も初めて実質をあたえられる。そのように考えて、本書は、計画された。

 漱石が若年時から死の間際まで一貫してモティーフにしてきた、「人間がなぜか惹かれてしまう抗いがたい力」とは何か? その謎を解き明かすため、小説作品は当然、英詩・俳句・漢詩から評論までフルに眺め渡した、数多ある漱石論の中でもユニークな一冊。もちろん、著者自身の「読むことと書くこと」をフルに投入した、文字通り「渾身の一冊」でもあります。
 以下に公開するのはその「はじめに」。ぜひ、御覧ください。

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神山睦美「はじめに」

 漱石の『文学論』にシェイクスピアについてこんなことが書かれている。父を殺し、母と姦通し王位を奪った叔父の罪業を明かす亡霊に唆され、復讐へと手を染めていくハムレット。イアーゴーの姦計に陥って、愛する妻デズデモーナの貞操を疑い、その命を奪ってしまうオセロ。シェイクスピアが描いた悲劇の人物は、確かに私たちの胸を打つ。だが、彼らのような人物に実社会で出会うことは、めったにない。結局は架空の存在、浪漫的な幻想のなかで織りなされる存在にすぎない。
 そう思うと、シェイクスピアの悲劇も色あせたものに見えてしまう。むしろ、私たちの身辺にありそうなことを淡々と描き、私たちとそう変わらない人間たちの、ささいなといっていい心の掛け違いのようなものを浮き彫りにした作品の方に引かれる場合がある。その例として、漱石はジェーン・オースティンの『高慢と偏見』から、こんな場面を引いてくる。
 1800年前後のイギリスのある田舎町でのこと。独身の青年資産家ビングリーが、別荘を借りてその町に住むということを聞きつけたベネット夫人は、夫のベネット氏と、何気ない会話を交わす。ベネット夫人は、ビングリー氏が、五人の娘のうち誰かを見初めてくれるのを願っているのだが、ベネット氏の方は、母親と娘たちをビングリー氏に引き合わせることを潔しとしない。ビングリー氏が、五人娘を差し置いて、ベネット夫人に惹かれないとはかぎらないからだ。そんなことが、他愛もない夫婦の会話を通して描き出される。
 その会話の妙といったらなく、オースティンは、その後に展開する五人姉妹の次女エリザベスとビングリーの友人ダーシーとの、それこそプライドと偏見を通しての恋の行方に焦点を当てながらも、ごく普通の日常の風景を描くことを決して怠らない。彼らの恋にしても、他の娘たちの少しばかりはらはらさせるような恋にしても、容易なことでは悲劇に陥らない。落ち着くべきところに落ち着くというか、普通の男女の間にあるような、小波程度のものとして、それはおさまっていく。
 こうして漱石は、シェイクスピアの悲劇を現実離れしたものとみなし、オースティンの描いた恋愛に、現実を見いだすのである。しかし、小説家としての漱石はどうかというと、ハムレットやマクベスやオセロのような悲劇は描かなかったが、エリザベスとダーシーのような恋は何度も描き、最後には『こゝろ』といった悲劇をうみだす。『明暗』もどこか悲劇の陰翳を湛えた作品として中断された。そうすると、『文学論』で述べているのは、あくまでも浪漫主義、悲劇、写実主義といったものの定義であって、実作とは直接つながらないことなのだろうか。しかし、私には、そうは思われない。『高慢と偏見』におけるべネット夫妻のなにげない会話を称揚する漱石が、そこに暗示されている夫婦の心の掛け違いのようなものに引きつけられるのは、なぜか。日常の風景が、どこかでそういう掛け違いを修繕しながら展開しているとしても、どうしても修復することのできない心のありようからひろがる危機の風景というものがあることを、直観しているからなのだ。
 それが、シェイクスピアのような悲劇にいたることはないとしても、それにかぎりなく近いクライシスをもたらさないとはかぎらない。そして、この薄い膜でへだてられた二重の風景のなかに、私たちの生があるということを、漱石は感じ取っていた。そのことは、浪漫主義、写実主義といった文学理論上の定義よりもよほど重要なことである。そのことを、明らかにすることによって、漱石は漱石になっていった。そんなふうに思われたのだった。
 その漱石が影響を受けた哲学書というと、ウィリアム・ジェームズの『多元的宇宙』とニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』があげられる。とりわけ前者は、修善寺の大患後の静養において枕頭の書となった。また、漱石は、その静養のあいだに、ジェームズの訃報に接し、不思議な因縁を感じている。
 ウィリアム・ジェームズというと、アメリカのプラグマティズムの代表的な哲学者として知られている。経験と実用を重んずると共に、人間の心や意識が身体や脳の機能と無縁ではないことを明らかにした。それは同時に、純粋経験という領域にまで進められ、この経験においては、私たちの意識や脳の働きは、どのような神秘体験も超常現象も受け入れることができると唱えた。
 その集大成が、多元的宇宙論であって、宇宙は私たちの経験や知によって観測できる一元的なものではなく、知られざる宇宙がいくつも存在するという仮説である。この仮説は、宇宙のカオス・インフレーション論や量子力学の多世界宇宙論に大きな影響をあたえた。
 そのジェームズの晩年(1910年)の遺稿ともいうべき論文に「戦争の道徳的等価物」というのがある。そこでジェームズは、ギリシアの時代から戦争は人間にとって「恐怖」から解放されるための手段だったということを述べている。そして、1910年において、アメリカにとっての恐怖とは、日本とドイツに対するそれであるといい、とりわけ日本脅威論こそがアメリカに戦争の火種をもたらしているという。これをのりこえるためには、「怖れ」という心理的状態が何に起因するかを探っていかなければならない。
 人間は、プライドをたもつことを自己の存在理由としているところがある。それほどまでに誇りを重んじようとするのは、自分が他者から攻撃され、傷つけられるのではないかという怖れからのがれられないからだ。戦争の原因も、まずここにあるといっていい。日本脅威論を唱えるアメリカのプロパガンダは、一方においてアメリカという国の誇りを若者に植えつけることによって、彼らの意識の奥にある「怖れ」から解放しようとしている。しかし、その先にあるのは、若者を戦争へと駆り立てていく死の行進いがいではない。
 漱石が、このようなウィリアム・ジェームズの戦争論に、瞠目させられている場面を想像してみるならばどうか。晩年の「点頭録」において、目覚しいまでの第一次世界大戦批判を展開した理由が飲み込めてくるだろう。それにしても、このことからわかるのは、ウィリアム・ジェームズを始め、人間の意識や心理の探究者というのは、最終的には人間存在の本質の探求に向かうということである。漱石もまた、人間の意識や心理の探究者として、最後には人間存在の本質の探求に向かった。そのことは、晩年のいくつかの小説を読めば明らかである。
 小説のみならず、俳句、漢詩さらに『文学論』も含めて、初期漱石から、そういう最後の漱石にいたるまで、いわば、漱石の全体像を読み解く試みとして、本書を受け取っていただけるならば幸いである。

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【目次】

はじめに

第一部 生成する漱石

□第一章 初期漱石の諸相
序節 無言と沈黙/第一節 初期三論文と透谷(第一項 自然と社会/第二項 恋愛と倫理/第三項 美と力)/第二節 近代以前と子規(第一項 嘱目具体の事象/第二項 「病い」と「狂気」/第三項 平明で依々たる感性)/第三節 エロティシズムの主題と詩的体験(第一項 「沈黙」の可能性/第二項 エロティシズムと倫理/第三項 仮構と構成美)
□第二章 問題としての「小説」
序節 未了性と生成史/第一節 逍遥・鷗外・二葉亭――「物語」と「小説」(第一項 「小説」創造の課題/第二項 写実における仮構性の問題/第三項 仮装する近代/第四項 観念への飢渇)/第二節 透谷・子規――「詩」と「小説」(第一項 「小説」の不可能性/第二項 観念のラディカリズム/第三項 病性の自然へ向けられた眼/第四項 「詩」と「小説」のアイロニー)
□第三章 小説作品の試み
第一節 『吾輩は猫である』(第一項 存在的心性と象徴的表現/第二項 諷刺意識と批判精神/第三項 「小説」における未了の闇)/第二節 『漾虚集』(第一項 「詩」からの転位としての「小説」/第二項 「エロティシズム―罪―死」のモティーフ)/第三節 『坊っちやん』(第一項 日露戦争後の社会の拡散/第二項 社会的拡散と親和的エロスの関係/第三項 『其面影』の出現)/第四節 『草枕』(第一項 平明で俗で淡々とした生/第二項 近代的な「小説」への対位/第三項 非人情の美学と「小説」/第四項 超俗から俗世間の美へ)/第五節 『二百十日』『野分』(第一項 孤高の精神と「自然」の相)/第二項 関係から独立して実在する自然/第三項 現実を生きる人間の倫理性と道義心)/第六節 『虞美人草』(第一項 勧善懲悪と性格描写/第二項 作者の観念の傀儡/第三項 登場人物の心に抱かれた憧憬と不安/第四項 職業作家としての後退)/第七節 『坑夫』(第一項 揺れ動く心的世界と不安な身体/第二項 身体を関係づけることについての挫折/第三項 心的世界のさまよいと小説の彷徨)/第八節 『文鳥』『夢十夜』『永日小品』(第一項 エロティシズムの主題の行方/第二項 エロス的憧憬の表出/第三項 エロス的空白とエロティシズムの不可能性/第四項 関係の内面化と内面の関係化)/第九節 『三四郎』(第一項 主題の韜晦と明瞭な仮構線/第二項 暗く鬱屈した青春像/第三項 「性」的親和力と「罪」)

第二部 深化しゆく小説
□序章 作品が秘めている癒す力
□第一章 『それから』論
第一節 白昼の戒律と身体への固着/第二節 小説的時間の断層/第三節 無償性を内にはらむ「自然」/第四節 愛の刑と愛の賚(たまもの)/第五節 破局へと向かう時間
□第二章 『門』論
第一節 「和合同棲」という心/第二節 内なる〈放棄〉の姿勢/第三節 〈自然〉と〈天〉/第四節 運命的な出会いの記憶/第五節 死屍累々とは何か
□第三章 『行人』論
第一節 性の争いというモティーフ/第二節〈性〉における恣意性のゆらめき/第三節 関係が疎外する観念と倫理的悲劇/第四節 それぞれの〈性〉を荷った日常からの離脱/第五節 代償行為としての仲介者/第六節 〈性〉の宿命と夫婦の悲劇
□第四章 『こゝろ』論
第一節 エロスの恣意性と世代の必然性/第二節 家族と世代についてのフィクション/第三節 〈故郷〉〈家族〉〈父〉/第四節 猜疑、不信、背離意識/第五節 耐えがたい心の奥に隠されたもの/第六節 不在証明と完全なる物語
□第五章 『道草』論
第一節 遠い所から帰って来た者/第二節 仮のすがたをとって現われる〈自然〉/第三節 「老い」と「父」であることの選択/第四節 違和と葛藤を余儀なくされる関係/第五節 一対の男女に違和をもたらすもの/第六節 「自然」が与えた「緩和剤」/第七節 片付かない世の中と人間の運命
□第六章 『明暗』論
第一節 相対的な透視図と絶対の時間/第二節 エロスの関係を支配する力/第三節 酷薄な時間に抗おうとする情熱/第四節 心的優者と劣者/第五節 赦すことのできない心情/第六節 家族という〈性〉的制度/第七節 大きな自然と小さな自然/第八節 夢のようにぼんやりとした宿命の重囲/第九節 知の極限を越えようとする時間

第三部 思想としての漱石
□序章 自己追放というモティーフ
第一節 国民的作家という呼称から漱石を救い出すこと/第二節 社会の基底をなす人間と人間の関係/第三節 国民的作家と人生永遠の教師
□第一章 三〇分間の死と存在論的転回
第一節 普遍性としての山脈/第二節 ロンドン留学と『文学論』/第三節 転回としての三〇分間の死/第四節 存在論的な文の連なり/第五節 無名性と存在の遺棄
□第二章 一九一〇年、明治四三年の大空
第一節 エポックとしての明治四三年/第二節 わが必要なる告白/第三節 普遍の意志と大いなる器量/第四節 国民国家と日露戦争/第五節 戦争の必然と運命の影
□第三章 博士問題の去就と不幸の固有性
第一節 不幸の固有性/第二節 博士問題の去就/第三節 共苦と憐憫/第四節 大審問官と精神の自由
□第四章 存在の不条理と淋しい明治の精神
第一節 『死の家の記録』と『彼岸過迄』/第二節 明治天皇崩御と乃木大将殉死/第三節 淋しい明治の精神/第四節 遺棄された生と無意識/第五節 生の欲動と死の欲動
□第五章 多声的構造のなかのパッション
第一節 須永市蔵とユダの場合/第二節 怖れないイエスと怖れるユダ/第三節 オイディプスとイエスと、そしてユダ/第四節 罪責意識の起源/第五節 「愛」と「憎悪」という思念/第六節 強迫神経症のなかにみる悲劇/第七節 一寸四方暗黒の状況/第八節 多声的構造と父殺しのテーマ/第九節 強迫神経症的内面と人神論
□第六章 一人の天使と歴史という翼
第一節 死屍累々の廃墟を後にして/第二節 自己追放の存在論的根拠/第三節 戦争の時代とその運命/第四節 内部生命の破綻
□第七章 索漠たる曠野の方角へ
第一節 邪悪な人々のくすんだ地平/第二節 現実そのままとフィロソフィー/第三節 『道草』におけるカフカ的状況/第四節 汚辱にまみれた女性たち
□第八章 浮遊する虚栄と我執
第一節 硝子戸の中から/第二節 魯迅という指標/第三節 実体のない虚栄と我執/第四節 脇腹の赤い症候/第五節 堅い茶色の甲殻/第六節 存在の恣意性と内面の非自立性/第七節 軍国精神と「力」の思想/第八節 エロス的欲望の挫折

第四部 再帰する『文学論』
□第一章 存在論的転回Fと存在的構えf
第一節 三〇分間の死の経験/第二節 理由のない怖れ/第三節 戦い・争闘・格闘/第四節 有限性からの表象
□第二章 運命Fから戦争Fへ
第一節 外発的な力と不可抗的な滑空/第二節 神的暴力と悲劇の根源/第三節 天才と苦しい戦争

第五部 詩人漱石の展開 俳句・漢詩
□序章 漱石の詩魂
第一節 最も詩に近い小説/第二節 漢詩表現のめざましさ/第三節 理想の灯を燈した存在/第四節 挫折をも含めた理想のイメージ
□第一章 俳句
行く秋や縁にさし込む日は斜
名月や故郷遠き影法師
海嘯去つて後すさまじや五月雨
人に死し鶴に生まれて冴え返る
月に行く漱石妻を忘れたり
朝寒み夜寒みひとり行く旅ぞ
安々と海鼠の如き子を生めり
秋風の一人をふくや海の上
手向くべき線香もなくて暮の秋
時鳥厠半ばに出かねたり
此の下に稲妻起る宵あらん
秋の江に打ち込む杭の響きかな
別るゝや夢一筋の天の川
生残る吾恥かしや鬢の霜
生きて仰ぐ空の高さよ赤蜻蛉
病んで来り病んで去る吾に案山子哉
思ひけり既に幾夜の蟋蟀
風に聞け何れか先に散る木の葉
秋風や屠られに行く牛の尻
我一人行く野の末や秋の空
□第二章 漢詩
鴻台 二首 [其一]離愁次友人韻
[『木屑録』より][其二]
[『木屑録』より][其七]
[『木屑録』より][其十三]
函山雑詠 八首 [其六]
無題 五首 [其一]明治二八年五月
[春興]明治三一年三月
「失題」明治三一年三月
[無題]明治三三年
[無題]明治四三年九月二九日
[無題]明治四三年一〇月一六日
[無題]明治四三年一〇月二七日
[無題]大正五年八月一九日
[無題]大正五年九月二六日
[無題]大正五年一〇月四日
[無題]大正五年一〇月六日
[無題]大正五年一〇月二〇日
[無題]大正五年一一月一九日
[無題]大正五年一一月二〇日夜

あとがき
略伝 
略年譜 
初出一覧 
参照文献
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