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門玲子『玉まつり 深田久弥『日本百名山』と『津軽の野づら』と』刊行に寄せて

 2020年5月、幻戯書房は門玲子著『玉まつり 深田久弥『日本百名山』と『津軽の野づら』と』を刊行いたしました。本書は、深田久弥と同郷で、復員後の深田と身近に接した著者が、当時を回想し、深田と北畠八穂の作品を丹念に読み込み昭和文学史の真実に迫る、鎮魂の長篇エッセイです。『江戸女流文学の発見』で毎日出版文化賞を受賞した作家・女性史研究家としても知られる門さんが本書にこめた思いを今回、掲載いたします。

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『日本百名山』の著者深田久弥(ふかたきゅうや)(1903~71年)が山梨県の茅ケ岳(かやがたけ)で亡くなって間もなく50年。今もテレビ番組でその名を見かけることがある。山の文学者として知られる深田だが、戦前は鎌倉文士の一人で『津軽の野づら』ほか多くの作品のある純文学作家だった。

 私が深田久弥に初めて出会ったのは遠い昔、高校三年生になる春休みのことだ。彼は復員して郷里の石川県加賀市大聖寺町に帰ってきていた。わが家に近い深田家で、町の知識人たちの楽しい会が行われ、大学に進んだ私も誘われて参加した。会の後、深田の長い散歩に度々誘われた。その時期に私が彼からどんなに多くのことを学んだか計り知れない。

 深田は1955年に金沢から上京すると、ヒマラヤ遠征、『日本百名山』の出版、シルクロード踏査など、山の文学者としての華々しい活躍が始まった。ある時私の耳に、彼の『津軽の野づら』や戦前の作品のほとんどは、先妻でもある作家の北畠八穂の代作だという不名誉なうわさが届く。『津軽の野づら』を愛読していた私には衝撃だった。信じられない。いつかこの謎を解き明かしたいと思った。

 深田が亡くなって数年後、深田の妻志げ子さんを訪ねたことがある。懐かしい思い出話をした一晩。印象的なその夜が忘れがたく、短い原稿に書いて「玉まつり」と仮に題した。そしてそれを引き出しに仕舞いこんだまま、当時関心のあった江戸女流文学の研究に没頭していた。原稿はいつまでも無くならず、何かを探していると不意に現れては深田夫妻を思い出させる。そんなことが長く続いた。

 深田の周囲にいた山好きの文学者や優れた編集者にあの謎を解き明かしてほしいと期待したがむなしく、私が書くしかないと悟ったのが数年前。古びた原稿を読み返し、戦前の深田の作品と、戦後北畠が書き始めた作品を読み込んで、比較することから仕事が始まった。私の読む力を試される長い苦しい仕事となったが、二人の生い立ち、気質、感性、思想、作品の主題、文体、構成などの違いから、二人の個性は紛れようもない。深田作品への当時の文学者たちの深い読み込みや、高い評価も知った。二人が暮らした我孫子や鎌倉へも赴き、ようやく書き上げたのが昨年の秋だった。

 この春のコロナ自粛の時期を、三回の校正で充実して過ごせた……と内心得意だったが、その後異様な疲れが長く残り、老いを実感させられる羽目となった。

深田久弥(ふかた・きゅうや) 石川県大聖寺町(現在の加賀市)生まれ。作家、登山家。女性問題で離婚したのを機に、先妻の作家・北畠八穂が深田の小説は自作の焼き直しだと主張。一時文壇と距離を置いた。 1965年、随筆集『日本百名山』で読売文学賞を受賞し、山の作家として人気を取り戻した。
門玲子(かど・れいこ) 1931年、石川県大聖寺町生まれ。作家、女性史研究家、98年『江戸女流文学の発見』(藤原書店)で毎日出版文化賞。愛知県大府市在住。
※中日新聞(夕刊)2020年10月24日付 より 転載(一部、漢数字を算用数字に改めた)
【目次】
一章 再会
二章 出会い――不思議な大人
三章 めぐりあわせ
四章 いくつもの謎
終章 二つの旅

 あとがき
 参考文献・初出一覧 索引

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