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ペタル二世ペトロビッチ゠ニェゴシュ『山の花環 小宇宙の光』訳者解題(text by 山崎洋)

 2020年10月22日、幻戯書房は海外古典文学の翻訳シリーズ「ルリユール叢書」の第13回配本として、ペタル二世ペトロビッチ゠ニェゴシュ『山の花環 小宇宙の光』を刊行いたします。ペタル二世ペトロビッチ゠ニェゴシュ(Петар II Петровић Његош 1813–51)はモンテネグロの統治者にして、叙情詩を発表した詩人として知られ、セルビア文学史上、最大の詩人と称されています。本書は、オスマン・トルコ帝国からの解放を目指した、モンテネグロ民衆による戦いを描いた長編叙事詩『山の花環』。「人間(ひと)こそ人間(ひと)の最大の謎」と詠い、宇宙の創造、人間の堕落と救済を論じ、純粋に形而上的問題を追求した『小宇宙の光』という、ニェゴシュの叙事詩三部作を代表する二作を収録。本書と同時刊行をしました、イボ・アンドリッチ『イェレナ、いない女 他十三篇』には、著者ニェゴシュについての論考が収められています(「コソボ史観の悲劇の主人公ニェゴシュ_」)。
 以下に公開するのは、訳者・山崎洋さんによる「訳者解題」の一節です。

ペタル二世ペトロビッチ゠ニェゴシュ『山の花環 小宇宙の光』訳者解題(text by 山崎洋)

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ニェゴシュとその時代

 ニェゴシュは1813年、旧暦11月1日(新暦11月13日)、モンテネグロのニェグシ村に生まれた。本名をラディボエ・トーモフという。愛称ラーデ。父トーモ・マルコフと母イバナのあいだに生まれた五人姉兄弟のうち、四番目の子である。トーモフは父の名によるいわゆる父称で、姓として用いられた。近代的な戸籍制度のない当時にあっては、父子の名が異なれば、姓が変わる。後にニェゴシュはモンテネグロの統治者としてペタル二世ペトロビッチを称するが、このペトロビッチは古代日本の「氏」にあたる部族の名で、ペタルという名の共通の祖先を持つ一族の一員であることを示す広義の父称である。ペトロビッチはモンテネグロ王家の姓として定着する。ニェゴシュというのは生地のニェグシ村にちなんだ筆名だが、近くのニェゴシュ山の名をとったともいわれる。ロシアを訪れた際、かの地では、アレクサンドル・セルゲイェビッチ・プーシキンのごとく、名・父称・姓の三部から成る氏名を名乗るのが普通なので、それに合わせて考え出したものであろう。

 父トーモの兄、つまりラーデ少年の伯父が当時のモンテネグロ主教公、ペタル一世であった。ツェティニェ修道院のセルビア正教会の府主教が同時に俗界の首長でもある一種の神権政治で、その統治者を主教公と呼ぶ。ラーデは十二歳のとき、ペタル一世の招きでツェティニェ修道院に入り、読み書きとロシア語を学んだ。ペタル一世は甥の人並すぐれた体格と知力に感嘆し、後継者として育てることに決め、アドリア海沿岸ヘルツェグ・ノビ近郊のトプラ修道院に送り、修行を続けさせた。そこでイタリア語も習得している。さらに一八二七年には、セルビアの詩人シーマ・ミルティノビッチ゠サライリヤをツェティニェに招き、ラーデの教育係に任命した。ミルティノビッチは生粋のロマン主義者で、ヨーロッパ各地を遍歴し、ライプチヒ大学に学び、ゲーテの知遇を得るなど、最新の知識を身につけていた。詩人ニェゴシュの形成に大きな影響を与えたと考えられる。

 ラディボエ・トーモフは1830年、ペタル一世の逝去にともない、遺言により、部族長たちの支持を得て「モンテネグロの統治者」に指名された。時に17歳。即位式は旧暦10月19日(新暦10月31日)に行われた。翌年、修道誓願して修道名ペタルを名乗る。修道輔祭、修道司祭、掌院(大修道院長)を経て、高位聖職者(主教)に叙聖されるのは、即位から3年後の1833年である。

 仁政で知られ「聖人」と崇められたペタル一世からニェゴシュが引き継いだモンテネグロとは、どのような国であったのか。

 現在のモンテネグロはバルカン半島の西南、アドリア海に面する山国で、福島県ほどの広さに60万人の人口を有する小国であるが、本来はその一部、石灰岩の山々に囲まれたツェティニェのカルスト盆地を中心とする地方を指す地名だった。中世セルビア王国のミルティン王の詔勅に見られるのが初出という。北にニクシチを中心とするヘルツェゴビナ地方、東に山地のブルド地方、南にモラチャ川流域平野のゼータ地方、西にアドリア海沿岸のプリモリェ地方がある。ペタル一世の時代にブルド地方の族長たちが帰順したが、他の地方はまだ外国の支配下にあった。

 モンテネグロとは「黒い山」を意味する現地語「ツルナ・ゴーラ」のイタリア語訳で、かつてこの地がベネチア共和国と境を接し、強い関係を持っていたことを示している。18世紀末にベネチア共和国が滅び、沿海地方はハプスブルグ帝国の支配下に入り、ニェゴシュの時代には、ニェグシ村の外れにモンテネグロとオーストリアの境界があった。語源としては、「黒々とした針葉樹に覆われた山」とする説が有力である。15世紀末に、オスマン・トルコ帝国のバルカン進出にともない、セルビア正教会の府主教座が平野部からこの山間のカルスト盆地に移って以来、一地方の名であったのが地域の精神的、政治的な中心として、地域全体を指す「国名」となっていく。形式的にはオスマン・トルコ帝国を宗主国と認め、キリスト教徒は貢納の義務を負う被支配階層を成すが、実際はツェティニェの教会がモンテネグロの自治を行い、その自治は独立に等しい重みがあった。イスラム教に改宗すれば貢納の義務を免じられ、代わりに兵役の義務が生じる。イスラム教改宗者はしばしばトルコ人を自称して支配階層に属し、オスマン・トルコ帝国の統治を支える役割を担っていた。

 オスマン・トルコ帝国は17世紀末、ウィーン攻囲戦に敗れ、その勢威にも翳りが見え始める。『山の花環』の主人公であるダニロ主教公はその状況を利用し、たがいに対立抗争を繰り返す諸部族を、あるいは融和策により、あるいは破門で脅し、教会の影響下に結束させた。モンテネグロは実際上の独立国として、ベネチア共和国やハプスブルグ帝国、さらには遠くロシア帝国とも外交を展開するまでになっていた。オスマン・トルコ帝国は、中央の統制が弱まり、地方の総督や役人の専横が目立つようになる。ボスニアやヘルツェゴビナ、北アルバニアなど、モンテネグロと境を接する地方の総督は多くが父祖の信仰を捨てイスラム教に改宗した豪族の子孫で、土地の改宗者を動員して再三にわたりモンテネグロに侵攻し、ツェティニェ修道院を破壊した。ニェゴシュの時代にはさすがにツェティニェに侵攻することはなくなったが、境界線をめぐる紛争は絶えなかった。モンテネグロの独立は国際的に承認されておらず、「トルコ人」たちは宗主国として振舞おうとした。斬られたモンテネグロ人の首級はボスニアのトラブニックやヘルツェゴビナのモスタールの城壁に晒され、そしてまたトルコ人の首級もツェティニェ修道院の裏手の塔に並べられる。ニェゴシュ自身、鏡を見て、自分の首がトラブニックの城壁に晒される姿を想像することがあった。「予は君主のなかの野蛮人で、野蛮人のなかの君主だ」と、ニェゴシュは自認していたという。

 そうした状況のなかで、モンテネグロ主教公ペタル二世にとって、最大の課題はオスマン・トルコ帝国からの解放だった。すでにセルビアでは1804年、カラジョルジェを指導者とする対トルコ第一次蜂起があり、ナポレオン戦争の混乱からオーストリアやロシアの支援が受けられなかったために一度は鎮圧されるが、1815年にはミロシュ・オブレノビッチ率いる第二次蜂起が起こり、イスタンブールは1830年、セルビア自治公国の成立を承認した。ニェゴシュがモンテネグロの統治者になった年である。ニェゴシュは、セルビアだけでなく、ボスニア、ヘルツェゴビナ、北アルバニアなど、周辺地域の蜂起勢力との連携をめざすが、成功しなかった。

 武力による解放には困難があった。衰えたりとはいえ、オスマン・トルコ帝国は大国であり、二、三の部族による蜂起はたちまち鎮圧されてしまった。ニェゴシュ自身も、1831年、32年と、ゼータ地方の解放をめざしてポドゴリツァの攻略を試みるが、失敗する。

 そうした失敗からニェゴシュは、当時のモンテネグロ社会が内包する限界を意識するようになる。祭政一致の政治形態と部族制社会である。トルコからの解放の第一の課題は、国内の改革、モンテネグロの「近代化」であった。ニェゴシュは、全精力を傾けてその課題に取り組んだ。

 当時のモンテネグロでは祭政一致の統治形態がとられ、ニェゴシュは、ペタル二世ペトロビッチの名のもとに、正教会の主教として教会の首長であり、モンテネグロの統治者でもあった。祭政分離が実現し、教会の首長と国の首長が別人になるのはニェゴシュの次の世代からであるが、そのための基礎はニェゴシュの時代に築かれた。それよりも困難だったのは、部族制社会から集権的な近代国家を創出するという課題であった。それは「大化の改新」と「明治維新」を同時に遂行するような革新で、この過程が族長たちの「公然たる、あるいは隠然たる、だが執拗な」(トマノビッチ)抵抗にあったことは想像に難くない。讒言や暗殺未遂もあった。若き君主も反抗する族長や部族に対しては、容赦がなかった。ペタル一世なら教会からの破門ですますところだが、ペタル二世は刺客の派遣や銃殺刑の執行も辞さなかった。ここでもニェゴシュは、「君主のなかの野蛮人で、野蛮人のなかの君主」として振舞わざるをえなかったのである。

 ペタル二世は、執行機関として元老院を設立し、有力者を選んで元老に任命する。元老院に服属する警察制度を作る。県令を任命して地方行政にあたらせる。租税制度を導入し、県令に徴収させる。族長制度と並行して、あるいは族長支配を弱めるために、国家としての職階制を確立しようとしたのである。印刷所を設立し、学校を作るなど、啓蒙活動も怠らなかった。しかし、租税の徴収は不安定で不十分であり、そのためにロシア皇帝から補助金を得ることが不可欠であった。

 セルビア第一次蜂起の苦い経験から、トルコからの解放には列強の支援が不可欠なことは明らかだった。ニェゴシュは1833年、正教会の主教職に叙聖されるためロシア帝国の首都サンクトペテルブルグに向けて旅立つ。ロシア帝国はオスマン・トルコ帝国との条約で、バルカン半島の正教徒の保護者の役割を認められていたのである。その途中、ウィーンに立ち寄っている。ウィーンでは、出発に先立って書きおろした本格的な詩篇『岩山の民の声 Глас каменштака』を出版するつもりだったが、オーストリアの検閲が許可しなかったため、目的は果たせなかった。検閲のために作成されたといわれるイタリア語訳が見つかっているが、叙事詩の連作の形式で岩国モンテネグロの自由を求める闘いの歴史を概観したものである。この主題はニェゴシュのその後の創作活動の中心をなす主題のひとつで、1835年にはさらに大部な歴史的叙事詩集『自由の歌 Свободијада』を書き上げ、原稿をロシアに送ったが、またしても出版にいたらなかった。没後、1885年にゼムンで刊行されている。

 ウィーンでは、2週間たらずの滞在だったが、メッテルニヒ宰相はじめ、ハプスブルグ帝国の貴族たちと交流を持ち、モンテネグロの存在をアピールすることも忘れなかったようである。当時、ウィーンに亡命していたセルビアの高名な言語改革者で民話民謡収集家、歴史家のブーク・カラジッチは、知人にこう伝えている。「モンテネグロの修道院長で将来の主教であるペタル・ペトロビッチが立ち寄りました。まだ20歳に満たぬ身ながら、ウィーンのいかなる大貴族より丈高い美丈夫です」。ブーク・カラジッチは翌年、この青年君主の招きでモンテネグロを訪れ、1837年には、ドイツ語で『モンテネグロとモンテネグロ人』を著すなど、交流を深めている。

 ペタル二世の主教叙聖の儀式は1833年8月、サンクトペテルブルグのカザンスキー聖堂で、皇帝ニコライ一世をはじめ、聖俗界の最高権力者たちの立会いのもとに執り行われた。ニコライ一世は自分と並んだ青年にこう言った。「おお、そちは予よりも大きいではないか」。青年は丁重に「ロシア皇帝より大きいのは神のみです」と答えたという。ニコライ一世は補助金5、000ドゥカトを賜り、ニェゴシュはその一部をもって印刷機を購入した。この印刷機で印刷されたニェゴシュの処女詩集『ツェティニェの隠者 Пустињак цетински』には、ニコライ一世の誕生日を祝う頌歌も収められている。巻末には、オスマン・トルコのスルタンを讃える短詩もあり、若き主教公ニェゴシュのバランス感覚が見事に示されている。

 この最初のロシア旅行では、古典主義の洗礼を受け、膨大なロシア語の文献を持ち帰った。そのなかにはホメロス、ピンダロス、ソフォクレス、ウェルギリウスなどギリシャ・ローマ古典のほかに、ミルトンの『失楽園』のロシア語訳もあった。ニェゴシュはサンクトペテルブルグからウィーンのブーク・カラジッチに宛てた手紙で、ホメロスのロシア語訳を手に入れたことを報告し、「セルビアのホメロスは民族歌謡のなかにあります」と述べている。『イーリアス』第一歌を十韻脚に翻訳してみて、ニェゴシュは、かつて師ミルティノビッチから教示された、セルビア英雄叙事詩の形式によってホメロス的世界を謡い上げる可能性を確信したにちがいない。アダムとエバの楽園追放を謡った『失楽園』が、人間の堕落を主題とする叙事詩『小宇宙の光』の執筆に直接の霊感となったであろうことは容易に推察できる。事実、多くの研究者がそう考えていて、両者のあいだの類似点と相違点を挙げることは、ニェゴシュ論の一テーマとなっている。

 ニェゴシュは1836年11月、ふたたびロシアへと旅立つ。国内の反対勢力から、補助金の流用から賭博や女性問題まで、ニェゴシュを誹謗する書簡が在ドブロブニク・ロシア領事館に提出されたことが理由であった。ニェゴシュはロシア皇帝に対し身の潔白の証を立て、その力を借りて国内での立場を強化する必要に迫られたのである。今回もウィーン経由だつたが、ロシアからの旅行許可がおりず、一か月半も足止めを食った。二度目の面談をした宰相メッテルニヒは、「精神的にも肉体的にも成熟している。宗教と君主政治の原理をあまり尊重せず、深く信じてもいない。自由主義と革命思想の影響を受けている」と評したあと、「監視の要あり」と付言している。ロシアに着いてからもしばらく軟禁状態が続いたが、ドブロブニクのロシア領事からの報告は好意的で、1837年3月にサンクトペテルブルグに入り、5月にはロシア皇帝に謁見し、5、000ドゥカトの補助金を賜り、おおいに面目を施した。帝都には5月いっぱい滞在し、8月半ばに帰国した。

 二度目のロシア滞在で、ニェゴシュはロマン主義の潮流に接する。プーシキンの作品を知って傾倒し、フランス語を学んでユゴーやラマルティーヌを読んだ。ラマルティーヌはフランス最初のロマン主義者と呼ばれ、『瞑想詩集』(1820)、『詩的宗教的階調集』(30)、叙事詩『ジョスラン』(36)および『天使の失墜』(38)などの神秘的、宗教的な作品がある。ニェゴシュのノートにはラマルティーヌの詩句の抜書きが多数あり、『小宇宙の光』のモチーフとの相似が指摘されている。

 三度目の外遊は1844年のことである。前年の9月、北アルバニアからトルコ軍が侵攻し、スカダル湖に浮かぶ二島を占領するという事件が発生した。武力による奪回に失敗したニェゴシュは、ハプスブルグ帝国に支援を求めるため、年が改まるとすぐ、ウィーンへ向かった。コトルから船でトリエステに入り、そこで哲学的な詩篇「トリエステの三日間」を著し、ウィーンでは詩「思想」を書いている。帰途、ベネチアに初めて足をのばす。

 当時のヨーロッパでも屈指の大都会であるウィーン、サンクトペテルブルグ、ベネチアがニェゴシュに強烈な印象を与えたであろうことは、想像に難くない。ニェゴシュの文学にとって決定的な刺激となったであろう。と、同時に、列強の支援なるものは無条件ではなく、高い代償をともなうものであることも知った。たとえば、1838年には境界線をめぐりオーストリア軍との衝突があり、領土の割譲を強いられた。国境の画定は、ハプスブルグ帝国によるモンテネグロ独立の承認ともいえるが、犠牲は大きかった。また、二度目のロシア行きでは、保護者ではなく支配者、審判者として振舞おうとするロシアを見た。トルコとの紛争における仲介もウィーンでは得られなかったのである。

 やがてニェゴシュの憔悴は頂点に達した。1845年には、血痰、せき、微熱に悩まされていたとの報告がある。この年、ニェゴシュは最も愛するロブチェン山の山頂近く、標高1、700メートルの地点に、みずからの墓となる小さな礼拝堂を建てた。

 まさにこの時期、ニェゴシュの文学が開花する。1845年に『小宇宙の光』、翌1846年には『山の花環』、そして1847年に『偽帝小シチェパン Лажни цар Шћепан мали』を書き上げた。いわゆる叙事詩三部作である。

 さらに、『小宇宙の光』の上梓と『山の花環』の執筆のあいだに、モンテネグロ民謡集『セルビアの鏡 Огледало српско』を編纂している。1846年初、ベオグラードで出版された同書は、未発表に終わった『岩山の民の声』や『自由の歌』と構想を一にするもので、モンテネグロ民衆の英雄的闘いの歴史を描いている。一部に創作詩を含むが、全体としては伝承された民族叙事詩を編纂したものとされ、ニェゴシュの文学作品としては重視されてこなかった。しかし、最近の研究では、ロシアの詩人プーシキンに捧げられたことや、「岩山の」ではなく「セルビアの」という表題を選んだこと、ブーク・カラジッチの収集した民謡集からカラジョルジェのセルビア第一次蜂起を謡った叙事詩9篇を転載していることなどが指摘されている。ニェゴシュがトルコからのモンテネグロの解放をセルビア第一次蜂起の延長ととらえ、オーストリアからの解放を含むバルカンの南スラブ民族全体の解放運動、すなわちユーゴスラビア主義の一環と位置付けるようになったことを示すもので、叙事詩三部作とつながる重要性を持つと考えられるのである。

【目次】
 山の花環―十七世紀末の歴史的事件
   献辞 セルビアの国父の霊前に捧ぐ
   登場人物
   聖神降臨祭の前夜、ロブチェン山にて開かれし民会_
     主教の悩み
     奇瑞
   生神女誕生祭の日、ツェティニェにて不和仲裁とて開かれし民会_
     神の怒り
     血の談判
     ルージャ掠奪
     苦味の酒
     トルコの首長
     総督の書状
     マンドゥシッチの夢
     ベネチアのこと
     骨占い
     婚礼の歌合戦
     若きバトリッチの死
     魔女裁判
     老僧の教え
     戦いの誓い
   降誕祭前夜
     嵐のまえ
     復活
     犠牲
     マンドゥシッチの銃

 小宇宙の光
   シーマ・ミルティノビッチに献ず
   第一歌
   第二歌
   第三歌
   第四歌
   第五歌
   第六歌

    註
    ペタル二世ペトロビッチ゠ニェゴシュ[1813–51]年譜
    訳者解題

【訳者紹介】
田中一生(たなか・かずお)
1935年、北海道生まれ、2007年東京歿。早稲田大学露文科を卒業後、ベオグラード大学に留学、ビザンチン美術およびユーゴスラビア文学を研究(1962‐67)。訳書に、ウィンテルハルテル『チトー伝』(徳間書店)、クレキッチ『中世都市ドゥブロヴニク』(彩流社)、アンドリッチ『ゴヤとの対話』『サラエボの女』(恒文社)、シュチェパノビッチ『土に還る』(恒文社)、カラジッチ『ユーゴスラビアの民話Ⅰ』(共訳、恒文社)など。

山崎洋(やまさき・ひろし)
1941年、東京生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1963年よりベオグラード大学留学、1970年、同法学部修士課程修了。訳書にカルデリ『自主管理と民主主義』(大月書店)、コーラッチ『自主管理の政治経済学』(日本評論社)、カラジッチ『ユーゴスラビアの民話Ⅱセルビア英雄譚』(共訳、恒文社)、ミハイロヴィッチ『南瓜の花が咲いたとき』(未知谷)、ヴケリッチ『ブランコ・ヴケリッチ 日本からの手紙』(未知谷)など。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。本篇はぜひ、『山の花環 小宇宙の光』をご覧ください。