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ジャコモ・レオパルディ『断想集』訳者解題(text by 國司航佑)

 2020年4月24日、幻戯書房はジャコモ・レオパルディ『断想集』を刊行いたします。
 ジャコモ・レオパルディは、フォスコロ、マンゾーニなど19世紀イタリア文学の盛期を代表する詩人・哲学者です。レオパルディの哲学的思索は彼の死後、20世紀を迎えると、実存主義の先駆として、本国イタリアはもとより、洋の東西を問わず、文学、哲学・思想の世界で注目を浴びることになります。今回刊行する、レオパルディ絶筆の書にして彼の哲学思想の『断想集』は、日本でも夏目漱石が親しみ、小説作品『虞美人草』に影響を与えた書物。
 以下に公開するのは、訳者・國司航佑さんによる「訳者解題」の一節です。

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『断想集』について

 生前に本作が出版されることがなかったので、最終的な題名も本人が決定したものではない。本作の一般的な呼称Pensieri(本書ではこれを『断想集』と訳した)はラニエーリが付したものである。レオパルディ本人が件(くだん)のド・シネ宛書簡においてこの作品に言及した際、それはフランス語でPenséesと呼ばれていた。この題に、パスカル『パンセ』(あるいはルソーのPensées)が意識されていることは明らかである。だがそれ以上に、モンテーニュ、ラ・ロシュフーコー、ブリュイエールなど、人間の洞察を追求したモラリストたちの伝統の中に自らの作品を位置づける狙いが見て取れる。

『断想集』のもう一つのモデルはルネサンス期のイタリアの散文に見出すことができる。直接引用されているのはカスティリオーネ(「断想39」)やグイッチャルディーニ(「断想51」)だが、それ以上に強く意識されているのは近代政治哲学の始祖の一人ニッコロ・マキャヴェッリだろう。『雑記帳』の目次において、『断想集』の基になった一連の断片を「社会におけるマキャヴェッリズム」と呼び、また定期的に更新していた執筆計画においても、『断想集』を思わせる作品について「社会に関するマキャヴェッリ」などと呼んでいたからである。『断想集』の内容を見ても、そこに見られるレオパルディの徹底したリアリズムは、マキャヴェッリのそれに比することができるものと言える。

『断想集』に収録された全111にのぼる断想は、テーマも分量もさまざまだが、人間社会の分析とそれに対する痛烈な批判が行われているという点が共通している。第一断想は『断想集』全体の要点をまとめたものであり、極めて過激な告白になっている。

私が言わんとしているのはつまり、世間とは立派な人間たちに対抗する悪人どもの同盟、あるいは寛容な人たちに対立する卑怯者どもの集まりだということである。

 ここでレオパルディは人間を二種類に区分しているが、注目すべきは、「世間」が「悪人どもの同盟」「卑怯者ども集まり」であるのに対して、「立派な人間たち」「寛容な人たち」は「世間」から疎外された存在とされている、という点である。同じ断想の中の「優れた人間」に関する説明を見てみよう。

それに対して優れた人間や寛容な人々はどうかというと、一般大衆と異なるために、彼らからほとんど別の人種であるかのように扱われ、それゆえ、同輩とも仲間ともみなされない。

 まず悪人と善人の対立があり、さらに集団と個人の対立が読み取れる。こうした構図は、『断想集』の執筆から50年ほど後に出版されるニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』を想起させる。レオパルディの鋭敏な洞察力は、じつに時代を先取りしたものであった。

『断想集』の批判の矛先は、彼の生きた時代に、ひいては文明そのものに向けられている。レオパルディ曰く、近代は「何も作ることが出来ない」のに、「すべてを作り直せると己惚れている」時代(「断想11」)であって、「徳」ではなく「商業と金銭」ばかりを追求している時代(「断想44」)なのだ。レオパルディの文明に対する嫌悪は、ギリシア・ローマを中心とした古代世界とフランスを中心とした近代世界を徹底的に比較した結果生じたものであろう。フランス革命を機に民衆が歴史の表舞台に登場した時代を近代と呼ぶならば、優れた個人と悪しき集団の間の対立は、そのまま古代世界と近代世界の間の対立にもなる。

 近代批判の際にはかなり具体的な事例が挙げられており、例えば書物や出版をめぐる考察(「断想3」、「断想59」)ではレオパルディ特有の目の付け所が光る。そこで指摘されるのは、古代においては実質が重視されていたのに対して、近代においては見せかけが幅を利かせているという点である。曰く、「見せかけ」、「装飾」、「飾り」などは近代の象徴そのものであり、それゆえ近代社会は誰もが自分と異なる登場人物を演じる「一場の演劇」になり果てた。そこでは、「言葉と行動」の間に深刻な「不和」が生じているのである(「断想23」)。この「不和」を解消するためには、いかなる方策がありうるのだろうか。「言葉」を変化させ、「物事をその本当の名前で呼んでやる」ことが、レオパルディの提案である。

 人間社会をありのままに観察すれば、「世間」が「悪人どもの同盟」であることを理解せざるをえない。こうした受け入れがたい現実を前に、我々はどのように対応すればいいのだろうか。この点に関して、レオパルディの態度は必ずしも一貫していない。例えば、「断想55」に見られる「世間が命じるのは、優れた人間に見えることであって、優れた人間になることではない」(本書95頁)という文言からは、「見せかけ」が(必要悪として)推奨されているようにも取れる。一方、例えば「断想99」においては「人間は、実際の自分と違うものになろうとしたり見せかけたりしない限り滑稽ではない」(本書153頁)と述べられており、誠実であることが求められているようにも見える。

 どうやらレオパルディは、こうした自家撞着に自覚的であったらしい。それを端的に表すのが極めて短い「断想56」である。

誠実さは、見せかけのものであるとき、あるいは――稀なことではあるが――それが信頼されなかったとき、初めて役に立つ。(「断想56」、本書96頁)

 ここに提示された自己矛盾は明らかに意図的なものだろう。むしろレオパルディは、人生や世界が矛盾に満ちた存在であることを、そのまま認識することこそに最も大きな意味を見出しているのかもしれない。「断想27」に述べてられているように、「人生のすべてが賢明かつ哲学的であるように望むことは、他の何にもまして賢明さと哲学性を欠いていることの証左」(本書52頁)なのであるから。

 第一断想の冒頭「これから述べる事柄に関して、私は長い間真実であると考えたくなかった」という告白のうちによく表れているように、レオパルディ本人もまた、世界の矛盾と人生の虚無とに激しく苛まれている人物であった。それでは、レオパルディ自身はこの現実といかに向き合ったのだろうか。彼が手に取った武器の一つは、機知に富んだ物事の解釈――あるいは諧謔的思考と呼んでもよい――であろう。「断想20」は『断想集』全体の中で最も長いものの一つだが、そこでは、詩の朗読がやり玉に挙げられ、この世界で最も憎むべき行為であるかのように徹底的に批判されているのだ。朗読の機会を求める自称作家の振舞いの描写に、訳者は笑いをこらえることが出来ない。多少長くなるが、以下に当該個所を引用する。

自分の作品を聞かせるために客を招待しては、相手が気落ちして顔面蒼白になり、あらゆる種類の口実を申し立て、さまざまな力を駆使して、逃げ隠れしようとするのを見ているはずである。それにもかかわらず、彼は鉄面皮を発揮し、驚くべき執着心をもって、飢えた熊が如く獲物を探し追跡しては町中を駆け回り、獲物が見つかるや否や目的地までに引きずるように連れて行くのである。朗読が長引くと、不幸なる聞き手は、まずはあくびをし、次に体を伸ばし、さらには体を歪め、そしてその他諸々の兆候を示す。読み手はそれを見て、聞き手が死ぬほど激しい苦痛を感じていることに気づくものの、だからといって朗誦を終わりにすることもなければ、休憩を設けることもない。むしろ、ますます自信に満ちて執着心を発揮し、声高に演説を続けるのである。それを、声が枯れてしまうか、聞き手が気絶してしまってから長い時間経った後、彼自身が、満足はしないものの疲労困憊となってしまうまで、何時間も、否、何日も夜を徹して続けるのである。その間中、すなわち一人の人間がその隣人を惨殺する間ずっと、彼が人知を超えた極楽浄土の快楽を感じていることは間違いない。(「断想20」、本書38‐39頁)

 微に入り細を穿(うが)つ描写もさることながら、表現の誇張(「飢えた熊が如く」「極楽浄土」)、漸層法(「まずはあくびをし、次に体を伸ばし、さらには体を歪め」)などさまざまな修辞技法が駆使されている。詩の朗読というある意味では取るに足らない問題のために、自らの文才をいかんなく発揮する――レオパルディのこうした諧謔精神もまた『断想集』の魅力の一つである。

『虞美人草』における『断想集』

『断想集』における鋭い近代批判は、明治の文豪夏目漱石にも少なからぬ影響を与えている。それが最も明らかに現れているのは、漱石が職業作家として初めて執筆した長編小説『虞美人草』においてである(本書の附録、173‐186頁を参照のこと)。

『虞美人草』は、博士論文執筆中の学生小野清三が、現代的な魅力に溢れる女性甲野藤尾(こうのふじお)と、恩義のある古風な娘小夜子の間で揺れるという物語であるが、小説の冒頭では、藤尾の腹違いの兄、甲野欽吾の京都旅行の様子が描かれている。「詩人」小野に対して、「哲学者」と称される甲野はこの小説のもう一人の主人公と言える。その甲野の書斎の机の上に常に置いてあるのが、「レオパルヂ」の書物なのである。『虞美人草』第十五話で、甲野は日記をつけながら思索を巡らす。日記に次の文句が記される。

多くの人は吾(われ)に対して悪を施さんと欲す。同時に吾の、彼等を目して兇徒(きょうと)となすを許さず。又その兇暴(きょうぼう)に抗するを許さず。曰(いわ)く。命に服せざれば汝(なんじ)を嫉(にく)まんと(本書176頁)

 これは『断想集』の「断想36」である(本書63頁を参照。著者漱石が読んでいたのは『断想集』を含むレオパルディ散文集の英訳版)。現代社会において「多くの人」がいかに悪人たるかを簡潔に表したレオパルディのこの言葉を、甲野は反芻するように日記に書き写しているのである。その次の個所では「断想38」(本書65‐66頁)が引用され、悪人の詐術の効果が発揮される条件が分析されている。ここから小説の最後まで、書斎の机の上に置かれた「レオパルヂ」が度々言及されることになる。

 しかし、『虞美人草』に見られるレオパルディの影響は、このような具体的な言及を越えたものであるように思われる。例えば、小説の中で「謎の女」と呼ばれる甲野の継母は現代文明を象徴する人物として描かれているが、彼女はまさにレオパルディが分析・批判した「文明」の特徴を大いに備えている。「謎の女」は、腹を痛めた子ではない甲野が亡き夫の遺産相続者であることを恨めしく思っている。『断想集』において、現代が「徳」ではなく「商業と金銭」ばかりを追求している時代と評されていたことが思い起こされる。また「謎の女」はつねに体面を繕い、実際に考えていることと反対のことを言う。これは『断想集』の中で繰り返し指摘される現代人の特徴、すなわち「見せかけ」、「装飾」、「飾り」にほかならない。物語の終盤に甲野が家を出る際、「謎の女」は「世間」を連呼して甲野を非難する。ここにもまた、レオパルディの現代批判が顔をのぞかせる。小説の末尾において、甲野は日記をつけながら、現代を喜劇に見立て、それに対立する悲劇の偉大さを説明している。ここにも『断想集』(「断想23」、「今日、誰もかれもがこうした喜劇の登場人物を演じている」)の残響を聴くことができるだろう。

 『断想集』との接点は他にも多々あるが、ここではそのすべてを紹介することはできない。だが、『虞美人草』における現代社会の分析・批判は、総じて『断想集』に負うところが大きいと言っていいだろう。

【目次】
断想集
 附録 夏目漱石『虞美人草』(抜粋)
 ジャコモ・レオパルディ[1798–1837]年譜
 訳者解題
【訳者紹介】
國司航佑(くにし・こうすけ)
1982年、東京生まれ。2015年、京都大学にて博士号(文学)を取得。現在、京都外国語大学専任講師。著書に『詩の哲学――ベネデット・クローチェとイタリア頽廃主義』(京都大学学術出版会)、“Rendiamo omaggio a Gabriele d’Annunzio”. Lettura crociana di d’Annunzio(«Archivio di storia della cultura», anno XXVI)がある。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。本篇はぜひ、『断想集』をご覧ください。

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