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”ボランティア”と、一括りにするとき

現在、災害被災地にボランティアが入るべきかどうかの話題が盛り上がっているが、個人的に違和感を感じる部分がある。

特に、”ボランティア”=被災地域「外」の支援者と、一面的に捉えていること。

被災地域では当たり前のように、被災者同士が助け合いながら生活をしている。公的な支援を担っている地元行政の職員ももちろん被災者である。
避難所生活をしながら避難所運営の一部を手伝っていた自分の経験を踏まえ私は、ボランティアは「(遠くから)向かう者」だけでなく、そこで「立ち上がる者」でもあると考えている。

だからこそ、NPO・NGOのスタッフ、その他の団体、企業、個人、そして現地の被災者…一人ひとり異なるボランティアをわざわざ一括りにし、個別の事情や背景を無視して「まだ現地に向かうべきでない」と一面的に批判することに大きな意義はないのではないかと感じる。
もう少し細かく絞って検討し、そこから社会を前進させるヒントを共有していくことの方がより重要なのではないか。そんな中で、主語を無駄に大きくし曖昧な言葉を社会に放つことによって自粛ムードが漂うのはもったいない。​

ただ、ボランティアを一括りにして都合良く捉えているのは自粛ムードを批判している側も同様で、一面的な「誰もが現地へ向かうべき」という論調から、自らの正義を押し付け、現地入りをした”自分”を正当化する気配も感じている。


自分と同じような考えではない誰かを否定するために、”ボランティア”を曖昧で大きくて無意味な括り方をするのは、どの角度からもボランティアを悪者として印象付けてしまうため、非常にもったいない。
いやもったいない以上に、かなりの悪影響をもたらすだろう。

むしろ「自分にはできないことができる」、そんな人を応援できる社会の雰囲気が醸成されればいいなと、災害に限らずであるが、思っている。

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