見出し画像

俺がGenjiだ! 第V章 「泣き虫ボーカリスト」

第V章 「泣き虫ボーカリスト」


1986年の暮れの事、僕のマネージャーから連絡が入った。

「新人歌手のデビュー・コンサートの仕事が来ていますけど、やります?」
「誰なの?」
「沢井さんもよく知っている女優のMさんですよ」
「えっ、彼女、歌も唄うの?」「そうなんですよ、この春デビューして、12月に初アルバムが出るんです。そこで来年の3月にデビ ューコンサートをやるそうで、メンバーはKくんところのメンバーで、と言うオファーが来てるんで すが」
「彼女は可愛いからやろうかな」

と言うやりとりがあって、その仕事を受けることにした。
彼女にはアーティストのKくんのリハ合宿があった沖縄で一度会っていた。 その時彼女はCMの撮影で沖縄の我々がリハーサルをやっている同じ場所に来ていて、たまたまKくん含めメンバーとで飲み会をやって親しくなっていた。 そういう繋がりもあったので、Mさんのサポート・メンバーもKくんのところと同じメンバーで、というオファーがあり、今回の流れとなった。

1987年の2月、彼女の初コンサートのためのリハーサルが始まった。 

リハーサルの初日は和気あいあいと楽しく良い感じだったのだが、日を重ねていくにつれて、それまで楽しくやっていたのが嘘の様に、彼女の顔が次第に強張っていく。やらねばならない事が山ほどあって、それぞれが思う様に行かないのだろう。それもその筈、彼女にとっては初めてのコンサート。やる事全てが初めての経験なのだ。

生のバンドでのリハーサル、コーラスの女の子との振り付けられたダンス、曲間でのMCなど、それ まで女優しか経験がなかった彼女にとっては、慣れないことばかりで戸惑ってしまうのだろう。それに加え、レパートリーはアルバム1枚分しかなく、残りの曲はカバー曲で行く事になっていたので、 自分の曲ではないものを自分流に料理していかなければならない、という課題もあった。 見ていて可哀想なのだが、アーティストとして自立して行くには、こういった試練は乗り越えて行かなければならない。

コーラスと一緒に唄ったり踊ったりする曲では、誰が主役なのか分からないくらい存在感がない。そんな時、ステージ・プロデューサーでもある演出家から、「何やっているんだよ!、君が主役だろ、脇役じゃ無いのだからもっと堂々としなきゃあ」と、激が飛ぶ。レコーディングで歌うのとは訳が違って、ライブでの説得力のある歌い方のコツがなかなか掴み切 れない。バンド全体を自分の歌で引っ張って行く感じは、ある程度場数を経験した歌手でないと出 せないのだ。 毎日、演出家やマネージャー、挙げ句の果てにはサポートのミュージシャン達からも注意される。それでも歯を食いしばって頑張っているのだが、なかなかうまくいかない。リハーサルが終わって、食事に行ったり、お酒を飲みに行ったりすると、すぐに彼女の未熟さが話題になり、いつも彼女は悔しくて泣いていた。そうすると、メンバーからはもっと厳しい言葉が投げかけられ、彼女は更に顔をくしゃくしゃにしながら泣いていた。

デビューの年は色んな仕事が入った。ラジオの公開番組や、海の家でのライブ、学園祭など、様々なイベントを行った。しかし、彼女は未だ世の中的に認知されていなかったので、学園祭以外観客は少なかった。歌手としては相変わらず存在感がなかったが、どんなことがあっても、持ち前のとびっきりの笑顔と、明るい性格が周りのスタッフやミュージシャンを癒してくれていた。どのイベントでも大学のサークル活動をしている様で、いつも楽しかったのを覚えている。

翌年から僕がバンドリーダーとしてまとめていくことになった。 

2年目になると彼女もだいぶ成長して周りから注意されることは少なくなった。しかし、ステージで唄っているときの存在感はまだまだだった。そうこうしているうちに、彼女の曲がヒットし始め、彼女の存在自体が世の中のブームになり始めた。ツアーの本数も増え始め、どこの会場も完売にな って来る様になった。「学ぶより、慣れろ」とはよく言ったもので、本数を重ねるごとに成長していく彼女が居た。

そして、3年目のツアーが始まったときのことだ。 ツアーとは別にイベントをやる話が持ち上がった。しかし、そのイベントはツアーが終わってから10日も経たないスケジュールでの話だった。彼女は是非ともやりたい、それも全て自分のプロデュースでやりたい、と言いだした。周りのスタッフからは猛烈に反対されたが、彼女は頑なに主張した。ツアーでの内容をマイナーチェンジするだけで良いのではないか、という意見が大勢を占めたが、 彼女は頑として、一から全部新しいものを作る、ということに拘った。そこまで言うのなら、と彼女の意見は認められ、彼女の提案する企画でやって行く事になった。そして、大変な作業が始まった。

彼女が全てのプランの詳細を決めて行かなければならない。企画、構成、選曲、進行、照明、演出、舞台セット、それぞれの専門家との打ち合わせ、それもツアーをやっている最中にやるのだ。大体の内容が決まり、ツアーが終わって新たなリハーサルが始まった。しかし1週間しかない。一番大変なのは彼女自身だ。アイデアを出さなければいけないし、スタッフに具体的なことを伝えなければいけない。その上、毎日リハーサルもしなければならない。曲も違えば、アレンジも違うし振り付けも違う。この時、周りの全てのスタッフとメンバーは、出来る限り彼女の負担を少なくしてあげようと全面 協力し頑張った。リハーサルの前に打ち合わせ、リハーサルの間に打ち合わせ、 リハーサルが終わっても打ち合わせ、そんな毎日が1週間続いたが、彼女は音を上げなかった。

そして、あっという間にリハーサルは終わり、とうとう本番の日が来た。たった1週間と言う期間に、新たなものを考えて作って来た。それを今からやるわけだ。緊張と期待が入り混ざった複雑な気持ちだった。場所は代々木の体育館。1万人近いお客。

彼女のプロデュースで、新たな曲、新たなアレンジ、新たなセット、新たな構成、これら全てがこ の日のためだけに用意された。この日限りのステージだ。ステージの周りを埋め尽くす観葉植物。東京中の観葉植物を集めたかの様なすごい量だ。そしてステージが始まった。

彼女は、いつもよりも生き生きしている。ステージは何のトラブルもなく順調に進んでいった。そして、最後にバラード曲で一斉に天井一杯の星球が点灯する。まるで満点の星空だ。客の「おーっ」と言う感嘆の声が聞こえて来る。そこに彼女にとっては初めての経験でもあるフル編成のストリングスが雰囲気を盛り上げていく。感動しない訳が無い。後で聞いた話だが、この代々木体育館の天井を埋め尽くすあれだけの星球を用意するのは物凄く大 変だったらしい。星球の数も、セッティングするのも。

ラストのアンコールも済み、全て終わった。そして、彼女とメンバー全員で手を繋いでステージの前でお客に深くお辞儀をした。お客さんの拍手は長い間鳴り止まなかった。

ステージを捌けた彼女と僕らメンバーは、お互い肩を抱き合いながら涙を流した。以前彼女が流した涙とは違う涙だった。


その時以来、彼女の成長はめざましく、存在感も驚異的に大きくなった。ステージに立っているだけで、彼女の世界観が伝わって来るほどに成長していた。


それから30年近く経った2018年の秋、

彼女のコンサートを観に東京国際フォーラムに行った。ちゃんとチケットを買って客席から彼女のコンサートを観るのは初めてだった。

彼女がステージに現れた時、不思議な感覚に陥った。懐かしい様な、嬉しい様な、30年前にタイムスリップした様な、そんな感覚だった。コンサートは途中15分の休憩を挟んで2部に分かれていた。観客への配慮なのだろう。彼女らしい。舞台の色調はシックな色合いで、大人になった彼女のセンスが伝わって来る様だ。昔の様な派手なステージングはないが、1曲1曲丁寧に歌う感じがとても良く、曲を紡ぐと言う表現 がぴったりの歌唱だった。 

彼女は落ち着いていて、歌は優しさに溢れ、会場中を暖かい空気が包んでいた。 その時、むかし彼女が語っていた言葉を思い出した。

「愛と勇気と優しさを、そっとみんなに伝えたい」

雰囲気のある良いコンサートだった。

ステージに立って歌っている彼女は、幸福そうだった。

僕はあの大変だった頃を思い出していた。


泣き虫で頑張り屋の彼女、

今井美樹

あの時の頑張りは今でも忘れない。

1989年9月20日代々木体育館で行われたアンコール曲 

新しい街で」/今井美樹

                     沢井原兒

Podcast番組「アーティストのミカタ」やっています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?