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「岡田斗司夫の頭が良くなる教育論」を拝聴して

評論家でもある岡田斗司夫が、2014年に東京学芸大学で行った講演を拝聴した。講演を踏まえて感じたことを書いておきたい(実は私の母校)。

講演の概要

 岡田は、はじめに「べき論ではない」教育について語ると切り出す。つまり、教育はどうあるべきかではなく、どういった社会的背景があって、その時代の教育は求められ、社会的に構築されたのか(いるのか)について語ります、と宣言することから始める。また、岡田は教育を「子どもを鋳型にはめる」ことと定義をする。その鋳型はどういった型をしているのか、どういった鋳型が理想とされていたのか(いるのか)を説明することがこの講演の主題となる。

 岡田の結論をはじめに書いておこう。教育は「国民教育」から「市民教育」へ移行し、現在は「フラタニティ(友愛民)教育」へと移行しつつあると述べる。人類の誕生から江戸時代まで、「民」は教育の対象ではなく、親がその子どもを労働力(資源)として使役していた。(フィリップ・アリエスは『<子供>の誕生』で、近代以前は「子供」は存在せず、いま「子供」と呼ばれる存在は、「小さな大人」として認識されていたという議論を展開している。)だから、江戸時代までは家庭内の躾はあっても、教育はなかった(例外はあるが)と岡田は言う。

 しかし、江戸から明治に移り、外圧に負け開国した日本は列強から植民地化されないように富国強兵を推進する。いわゆる上からの近代化であり、産業革命の導入である。産業革命においては、工場で働く「労働者」が必要となる。しかし、教育を施されていない(鋳型にはめられていない)「民」は、工場労働ができない(現在の私たちでは想像できないが)。そこで、学校で服従心と団結心を植え付けることで、工場労働に従事でき、国のために戦争をすることのできる規律を埋め込まれた画一的な「国民」が養成される。これが国民教育である。(この点の詳細は、ミシェル・フーコー『監獄の誕生』で、規律を埋め込む権力について述べられている。)

 その国民教育は、戦後(論者によっては大正期)に否定され、市民教育に移行する。原因は、社会が豊かになり、画一性を国民に押し付けることができなくなったからである(戦争への反省からナショナリズムを嫌悪する思想も影響しているだろう)。市民教育の理念は「個性と競争」である。個性を伸ばそう、個性を発揮して競争に勝ち抜こう、これが市民教育の理想である。(市民教育を教育社会学では「メリトクラシー」、つまりメリット(長所や能力)の支配として呼びならわしてきた。)

 そして、市民教育の次にくる教育を岡田は「フラタニティ(友愛民)教育」と措定する。市民教育の時代は、人口ボーナス期であり、経済は成長し、努力をした分だけそれに見合った「成功」が蓋然的に手に入った。しかし、人口オーナス期に入り、南北問題も解消しつつある現代においては、努力をしても、社会的成功・金銭的成功に結び付くわけではない。「成功」はある種の運任せになってしまった(YouTuberとして活躍する若者は努力したから、能力があったから売れた、大金を稼いだわけではない)。これが「市民教育」がオワコンになった原因である。

 この「フラタニティ教育」の本質は、競争の否定、すなわち、「分配と共生」であり、例えば「クラウドファンディングの経済学」が教育の中身になると岡田は言う。そして、そこでは「美女やイケメン」が支配者になるという。(このあたりの議論は岡田の「ホワイト社会」や「評価経済学」の議論を踏まえないと理解できないかもしれない。また、本人もこの辺りは直観によるところが大きいと断言している。それゆえ、フラタニティ教育の中身について深追いすることは避ける。)これが、岡田の90分に及ぶ講演の要旨である。

市民教育はオワコンか

 岡田の市民教育までの議論は、決して新しいものではない。実感としても分かる話であるし、社会学や教育社会学などにおいて、議論し尽されてきた話である。私が一番面白く視聴した点は、市民教育がその有効性を失いつつあると岡田が判断するに至った背景にある。それは、繰り返しになるが、人口オーナス期に入り、南北問題も解消しつつある現代においては、経済は長期低迷し、努力をしても社会的成功・金銭的成功に結び付くわけではない社会が到来したということである。

 正直、フラタニティ教育の議論は(未来のことを論じている以上当たり前ではあるが)やや説得力に欠ける。ただ、「市民教育は競争を理想としており、それは競争の結果、成功=幸せが保証されていたからだ。しかし、競争しても成功するかどうか分からない社会が現に今、実現しようとしている」という岡田の提示するロジックは、真実味を帯びている(ように少なくとも私には思われる)。

 多くの人は今でも市民教育を、「個性と競争」を尊重する社会を理想としているのではないだろうか。少なくとも、私は、この在り方を常識として考えているし、おそらく死ぬまで捨て去ることはできないだろうと諦観している。なぜなら、この思想が身体に染み付いてしまっているからである。努力をしなければならない、人に勝たなければならない、そして何者かにならなければならない。こうした思想が私の人格形成期のイデオロギーとしてマジョリティだった。

 でも、これはもう古い。競争の結果としての「上昇」ではなく、分配と共生という「水平」的な関係性を重視する友愛民にとって、人を批判し勝つことは、マナーの悪いこととして映るのだろう。「最近の若者はやる気がない、向上心がない」とか言ったり、思ったりしている30~60代のサラリーマン、それは、単に自分が時代に取り残されていることに気付くべきなんだよ、と岡田は言う(他の動画の内容も含む)。

 私は国民教育が嫌いだ。ナショナリズムが導いた帰結(戦争)を想起するからだ。人は群れると碌なことがない。人は団体では責任を負うことはできない。自分の行為に責任を持てるのは、個人として行為した時のみだ。そう考えている。市民教育の信奉者が、このように国民教育を憎むように、おそらく新時代の若者は、市民教育の信奉者を憎み、否定するだろう。我々がそうしているように。

「挑戦を、失敗を、恐れるな。」

 こうしたスローガンは、崇高ではある。しかし、もしかしたらすでに時代遅れになっているのではないかとも思う。このような理念が時代遅れになっていること、賞味期限が切れていることに気付いている大学はすでに看板の書き換えを始めている。市民教育的理念にどっぷり使った旧時代の人間として、自己批判的意味合いを多分に含みつつ日々の教育活動を省察したい。

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