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素人が源氏物語を読む~葵01~:レディ・ロクジョウの家の没落

源氏物語を読まないひとにも認知度ナンバーワンなんじゃないかと思われる、サイキック・レディ・ロクジョウ。葵の巻では、満を持して彼女にスポットライトが当たります。

■2人の開花

これまでは六条あたりに光源氏の乗り気じゃない通いどころがあると示されていただけの彼女が、葵の巻では素性が明かされるし、サイキックとしての能力も開花させるのです。

紫の君の女としての開花が、光源氏の家に引き取られた時点で既定路線だったとすれば、それには何巻もかかっているのに、ですよ。

愛されガールのムラサキと、孤高のロクジョウ。こうも扱いが違うのは、ムラサキこそが運営(=紫式部)に愛されてるからでしょうか? とはいえロクジョウはコキデンみたいに憎らしげな印象は与えられてないのですよ。父なき家の娘はある意味、物の数にも入らず、恋はままならない。そんな哀しさがほとばしってしまうのが、鬱陶しいけど。

■レディ・ロクジョウの捻れた魅力

ロクジョウは、運営に愛されたヒールなのでしょうか。まあ、若くて帝に入内したり東宮妃になったりする女の子がいちばんエライ世界だから、出てきたときからオバン枠だったであろうロクジョウはただ麗しいだけのようには描かれないけど、他を圧倒する存在感です。

物語の世界のなかでは、ロクジョウは御息所という身分の高さや、風雅で教養が豊かなところが魅力なのでしょう。けれども読者にとっては、

御息所という女子の憧れのポジションに行ったのに此処まで落とされたのかという意外性や、身分の低い側から高い側へ物申すことが良しとされてなさそうな世界で愛されても何を考えてるのか分からない女の子が少なくないなかで、

何かを伝えようとしてくる、当時の女性としたらもしかしたら「はしたない」かもしれない態度が魅力的なのではないかしらん。まあ、はしたなくても伝えたいことなんて、怨み言くらいしかないのかもしれいけど。

あと、キャラクターの弱点や欠点を愛そうという視点から言えば、教養と資産と娘とプライドがあって、肝心の現在有効な身分とか愛される実感は無いというアンバランスなロクジョウは相当に魅力的です。


■御息所は身分が高い

彼女は大臣の娘で、東宮の后となり子をなしました。そこまでは、最高の条件で、最高のライフコースを歩んできたのです。

しかし、政争があったのでしょうか、彼女の夫も父も死んでしまっています。夫は皇太子のうちに。

・設定が理解できなくてもOK

彼女の夫だった皇太子は、桐壺帝の弟であった、という設定です。きっと、彼女の夫だった皇太子と桐壺帝はバックアップしてくれる貴族が違う系統だったのでしょう。というか桐壺帝はどの大臣の言いなりになることなくバランス志向でやっているようなので、ロクジョウの家筋を失脚させた勢力が何をしたかったのかよく分からなくなるのですが、あまりにもパワフルすぎて勢いをそぐ必要が現大臣たちにはあったのでしょうか。

すみません、この辺は年立を整理したり、既読範囲に読み落としがあったかもと粗く読み返したりしたのですが、どうしてもキレイに理解できませんでした。

ロクジョウの娘の年齢からすると、彼女の夫が皇太子だったのは桐壺帝が御在位だったときのことになりそうなのですが、東宮って空位だったんじゃないのという疑問が出てきます。

でも、光源氏よりも年下の娘の年齢を言われるまでは、ロクジョウの夫が皇太子だったのは別の帝の時で、桐壺帝には突如帝の座が廻ってきたのではないかと想像してたんですよね。それだったら桐壺巻で帝が「父なき娘」である桐壺更衣に夢中になったのが心情的に理解しやすいので。

おそらくこれは、素人読書風情が嗅ぎまわるべき事案ではありませんでした。紫式部先生は「わたしの設定メモや納得した決定稿が流布して現存してる訳ではないのだから、あなたは今ある本で読むしかないのですよ」と言ってきます。そうなんですよね、源氏物語を読んでると何度も浮上してくる「どうせ本人が認めた決定稿を知ることはできない」問題。このことは読みの足枷にも追い風にもなります。今回は、もう考えても仕方がないから、その辺はフワッとさせておくことにします。

・ロクジョウの元ダンの死後

実はロクジョウの元ダンの死後、桐壺帝からは入内の要請があったんですが「ダンナ死んじゃったしダンナの兄ィの今上ンとこ行くわ」とはならなかった。

ここも「え、その頃は桐壺死後テンションだだ下がりしてて藤壺とも出逢ってなくて女に対して興味なさげに書かれてなかったっけ? もしかして桐壺帝って2人いるのかな?」とこんがらかってきますが、例のフワッとさせとく対処で行きます。バランス路線を狙うべく、夜伽にルンルンできなくっても一定レベル以上の女には声をかけとく戦略だっなのかなあ。

まあ、帝のとこに入内してたとして、父なき娘だった桐壺更衣が横死したことを思えばロクジョウも愛されたならどうなってたかわからないし、愛されなければ辛いんだろうし、いずれは藤壺が現れるんですから、どちらにせよ難しかったでしょう。


・車争いの場面について整理します。

葵上も六条御息所も牛車のなかにいます。一条大路が混雑して牛車を停めるべきスペースが無くなったころに、葵上御一行様が何台もの車でやってくるのです。

花宴のときみたいに役職で席が決まっていれば葵上御一行様もお好きな時間に来ても観やすいVIPシートをバトルなしにゲット出来たんでしょうけど、祭の格が違うということでしょうか。内裏と大路とじゃ、ようわからんけど、だいぶ違うんでしょうね。

左大臣家の威光によって、とある地味なお忍びの車は場所をずらすように言われたのです。しかし、それは光源氏が夕顔のとこに行くときにオーラを消して出掛けてたように、御息所という身分を隠したロクジョウの車だったのです。

従者どうしが争い、ロクジョウの車は破損されます。ロクジョウが光源氏に恋をしていることは、すでに都の噂で桐壺院(桐壺帝)も知るところ。それだけでも彼女は辛いのに、こんな昼日中に公衆の面前で敗けさせられたのです。

彼女には身分があるという自覚があったことでしょうが、現実には、そして社会的には、左大臣家に破れたのです。正妻と愛人という意味では納得できないながらも立場上は劣っている自覚はあったでしょうが、大臣の娘同士のバトルとしては現役大臣の娘に故大臣の娘は勝てなかった。

彼女のすがっていたものは何だったのでしょうか。かつては、とても正しい娘だったのに。こんな筈じゃなかったでしょうに。こ、これは、怨めしそうです!

■虚しくたって、やめられない。

身分とか権勢とかって、偶然の幸運によって急上昇したりするから、虎視眈々と好機を狙わないわけにはいかないのでしょう。でも、行けるとこまで行ったら落ちるんですよ。道半ば、って思えるとこが、その家のマックスだったりしたらサイアクよね~。

なんてことは、レディ・ロクジョウを描かずとも、きっとすでに平安の共通認識だったんでしょうね。やだなあ、そんな都って怨念が渦巻いてしまうじゃないですか。でも貴族をやめるなんて出来る訳がなくて、貴族階級にありつづけるために娘を差し出し続けたかったんでしょうね。

これは平安の不思議なところですが、怨念とかを身近に感じてるようなんですよね。なにかあれば物の怪とか生き霊を感じてしまう。前世とかも含めて考えるなら、自分がどれくらい罪深いかなんて分かりようがないから、不安になれる。

不安定な世界でチャンスを拾っても、周囲の怨みは募る。怨まれることを意識すれば罪悪感も芽生えるでしょう。そこで必要とされるのが鎮魂。自分で倒しといて、今さら何? って思わなくもないけど、やれ、あのひとは素晴らしかった、美しかったと語り始める。善きことのように語るのも供養のうちか。

だから、権力の入れ替わる世界はチャンスに満ちていて、でも敗けるのが大半だから、鎮魂のために、あれもこれも美しかったって言わなくちゃいけないじゃないですか。やだそれ、雅びで怖い。

だから、御息所が風雅で教養が凄くてと語られるのも、葵上の死後にかつては冷たい夫のようだった光源氏が嫁の実家で深々と喪に服すのも、敗れたひとを鎮めるっていう意味もあったのかしらねえ、なんて妄想しました。

まだ車争いのことしか書いてないので、レディ・ロクジョウのことはまだまだ書けそうです。

再見!

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