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もし『源氏物語』が外国語の古典作品だったら読んでたのかな?


何の予備知識も無いのに、そうだ、源氏物語、読もう、と読みはじめています。現代語訳で、ですが。

現代語訳で読んでいると、「ここの部分、原文だと、どう書かれているんだろうなあ」と思ったりします。現代語訳で読みはじめたのは間違いだったのかとクヨクヨしたりもします。

でも、なんで現代語訳で読んでるかというと、『源氏物語』クラスになると、登場人物も多いし多層な階級も出てくるし、古文で読むのが、ちょっとお手上げだったんですよね。そもそも、平安時代の常識も知らないし。

なんだこれ、日本語なのに、全然日本語じゃない! 『枕草子』とか『伊勢物語』とかでは、なんとなく同じ言語と思えていた古文の日本語が、なんとなくですら読めない未習の外国語に見える。だから、現代語訳で読んでいる訳です。

だったら、もし『源氏物語』が外国語の古文の古典作品だったら読んでるんだろうか?

たぶん、読まないんじゃないかなあ。

たぶん読まない理由は、きっと「どうせ恋愛してるだけの長編小説でしょ」ってなるから。恋愛なんて出会って付き合えたり付き合えなかったりして別れるだけじゃん、って。同じ日本語、って思ったときには、むしろ恋愛という身近なテーマを仲立ちにして読めると思ったんですけどねえ。

母語だったり母国の作品だったりすることが、読みたさに繋がってる部分はある。

『源氏物語』を読む動機のひとつに、『枕草子』と同時代の別方向の天才作家によるもの、っていうのもある。『枕草子』を書いた清少納言ってどんなひと? というトピックでは『紫式部日記』で清少納言について言及があることを言われますから。その言われように、源氏物語ってどんだけ凄いのよ? なんで私が読めないのよ、悔しい。ってのもあった。いまのところ、外国古典文学だったら日本語訳されてても読まないけど、『枕草子』に相当する最初の突破口ができたら読みたくなるのかもしれません。

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