サンクチュアリは3苦あり

 私と一定程度以上関わった人間は私が某大学の教育学部で教職課程を履修していることは知っているはずだ。それ自体も正直とても厳しい。
 一般的な文系大学生といえば大学の学習によって拘束されるという感覚は薄く、自分のために時間を使えるものと思われがちだ。
 しかし教職課程は授業があるのが夕方以降であり出席が重視されるためいわゆる“社会不適合者"と呼ばれる人にはおおよそ不可能な教育課程である。
 私がこの課程を修めようとする理由は決して褒められたものではない。
 単に「母方の親戚がほとんど教員だから」というだけだ。入学祝いを渡されるときも「教育学部に入ったのだから教員になってくれるのか!」と笑顔で言われとても複雑な気持ちだった。
 少し前置きが長くなりすぎた。私が話したいのはそんな個別具体的な事例ではない。
「聖域とされる教職が果たしていつになれば“過剰な期待”から解放されるのか」ということだ。
 前提としておきたいのは基本的に教職に対して心からの敬意を持っているし期待も大きい。
 もちろんこれまで会ってきた教員に思うところはたくさんあった。
 しかしそのような個別の不満は職業そのものを否定する理由たり得ない。
 教員はやりがいがある素晴らしい仕事
 これは疑いようもない事実だ。人が人と触れ合いながら少しずつ自分の生きる世界を広げることは私が思うに最も人間らしい営みだ。
 教員とはそれを担う仕事であり故に聖域となり得る。それもまた理解できる話だ。
 しかし聖域は苦しみすら解決されない場所なのだろうか?
 聖域は本来苦しみから解放される最後の手段ではなかったのだろうか?
 今の教員は3苦を抱えている。
1 教員数の不足
2 教員業務の拡大
3 教員に対する過剰な期待
1については恐らく皆さんならば聞いたことがある、あるいは私よりも鮮明に問題点を理解しているだろうからここでは述べない。 
 主に語りたいのはそれぞれが相互に関連する2と3についてだ。
 教員の業務は無限と言っても差し支えないほどに増えてきている。それはちょうど社会が複雑化したなどと言われるのと同時のことだ。
 生徒の送り迎えや保護者対応に加えて研修や事務作業などの細かい仕事などは確実に労働時間を増やしている。
 そしてそのような問題は恐らく上からの押しつけとしても現れているし、教育や教員に対するの過剰な期待にも関連する。
安易な学習指導要領の改訂やそれに伴う科目再編、その最も顕著な例は依然語ったことがあるが「アクティブラーニング」に関する動きだ。
 コミュニケーション能力の育成なるものを持ち出して話し合いをさせれば全てがうまくいくような幻想を抱いている経済界とそれに迎合する政界、そのような考えを理論的にどうにか補強しようとして「アウトプットはインプットに良い影響を与える」という経験主義(デューイ)などの意見を無理やり持ち出して指導要領に書き込んだ官界。
 なぜ彼らは教育を自分たちの都合の良いように使おうとするのだろうか。
 その一方で彼らは教育に期待するばかりで教育に対して何かしたのだろうか。
 教員達はそんなハイエナ達の狩り場として疲弊され続けられるのだろうか。
 そんなことを、墓参の折に75歳の今も教員を続ける祖母に会ったことで考えてしまった。
 しかし彼女の言葉で最も感動した言葉がある。
「それでも私は教員という仕事が好きだから」
教員という聖域は闇を包み隠すものでありながら、一方では光も併せ持つ不思議なものなのかもしれない。
 だがその光が確実に弱くなっていることは事実だと思う。その光が線香花火のように消えるのかあるいは闇に覆われた宇宙を照らす太陽のようになるのか。これからが本番だ。
 
 


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