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食は、学校教育の課題であり、出発点である ― 「給食」から「創食」へ

 牧下圭貴は、「作る人と食べる人の関係」によって、学校給食をつくる人に生産や調理の知恵と技術が育まれてきたことを指摘しています。
 
 手づくりの学校給食にこだわる栄養士や調理員は、加工食品と手づくりと 
 の違いを「愛情」と語ります。愛情とは、ただの思いではありません。手
 づくりの過程では、食材の味、品質、その日の天気、気温、温度、過去の
 献立や子どもたちの反応などを考えながら、野菜を切る大きさや、ほんの
 わずかな塩加減が見極められています。それは、レシピやマニュアルでは
 書き表せない経験と技術によるものです。(牧下圭貴『学校給食‐食育の期 
 待と食の不安のはざまで』岩波ブックレット№751、2009年、70頁。)
 
 センター方式では大型の機械を使って野菜を切るために、どうしても料理に合った切り方ができないが、人間が切ると料理に合わせてさまざまな切り方ができて、必ずおいしくなるという学校栄養職員への聴き取りもあります。(藤原辰史『給食の歴史』岩波新書、2018年、189・190頁。)学校給食のしくみは、主に、調理場が学校に置かれている単独調理場方式(自校方式)といくつかの学校をまとめてつくる共同調理方式(センター方式)という調理方式の違い、学校ごとに献立をつくる独自献立と市町村で同じ献立にしている統一献立という献立の対象範囲の違い、学校・調理場ごとに近くの生産者を仕入れる個別購入と市町村で全調理場分をまとめて仕入れる一括購入という食材購入の違いがあります。学校給食調理場のセンター化、調理員のパート化、調理業務の民間委託化といった給食の「合理化」は、作る人と食べる人のつながりをなくし、作り手の経験と技術に根差した「愛情」を目に見えないものとして切り捨てているのではないか。「安いから」と輸入食品に依存し、「いつでも食べたいから」と旬を忘れ、「手っ取り早く簡単に食べたいから」と加工食品を求めるような風潮の中では、食が持っていた「作る人と食べる人の関係」は薄れ、生産や調理の知恵と技術が忘れられつつあるのではないか。子どもたちが食べる学校給食こそ、食材や調理など作る人と子どもたちとの関係を大切にしないと、食をないがしろにするおとなを増やすことにつながりかねないと指摘されています。(松下圭貴『放射能汚染と学校給食』岩波ブックレット№875、2013年、参照。)学校給食にどのようなお金のかけ方をして、どのように運営するかを決めることは、子どもたちをどのように育てたいか、子どもたちに学校給食を通して何を伝えたいかを考えることであり、子どもたちの未来にかかわる問題なのです。
 他方、調理する人と子どもたちをつなごうとする学校もあります。たとえば、校舎の1階に給食室があり、2階、3階に教室があるような、給食室とのかかわりが薄くなりがちな学校では、調理員が給食時間に教室に出向き、残しているご飯をその場で小さなおにぎりにしてくれる「おにぎり隊」に取り組むところがあります。あるいは、学校花壇をすべて野菜畑に変え、子どもたちが野菜を育て、それを学校給食にも使うようになった学校もあります。(牧下圭貴、同上書、2009年、51-54頁。)そうした調理する人と子どもたちとの関係性を重視した一つ一つの工夫ではなく、食をめぐる全体構造に子どもたちを参画させていく必要性が指摘されています。藤原辰史は、子どもたちが給食を知ること以上に、給食にかかわらなくてはならないと指摘します。子どもたちが給食の受け手だけに限定されているのではもったいないというのです。
 
 食材を近隣の農家が育て、献立をめぐって議論をし、調理員に教えてもら 
 いながら調理に介入し、片付けて残飯の行方を見届ける、という作業を自
 分たちの手でやり始めたとき、おそらく本当の食育は進み始めるだろう。
 (藤原辰史「食は教育の課題なのか ― 食育基本法をめぐる考察」佐藤
 卓己編著『学習する社会の明日』岩波書店、2016年、197頁。)
 
 また、調理することだけでなく、食材を買いに行くこと、食材をつくることを通して、食べることは口に入れることではない点とともに、給食を地域の人々に開放する点も提案されています。(藤原辰史『縁食論 孤食と共食のあいだ』ミシマ社、2020年、84‐86頁。)「自分たちの社会は自分たちでつくる」市民を育むためには、子どもたち自身が「自分たちの食は、自分たちで選び、自分たちでつくる」経験を積んでいく必要があります。何を食べるかによって、社会が変わり、自然環境も変わります。食は、プライベートな問題ではなく、パブリックな問題です。重要なのは、そうした議論が子どもたちにもひらかれているかという点です。藤原辰史が、おとなにもそれ相応の覚悟が必要となる教育の課題として食をとらえるのは、ナチス党政府も日本政府も食を啓発・教導の課題としてとらえていたからです。(藤原辰史『[決定版]ナチスのキッチン 「食べること」の環境史』共和國、2016年、参照。)教育と啓発・教導は、全く異なるものです。ここで言う教育は、教える側が自分たちに抵抗し乗り越えていく主体を育くむことです。教育は、学校に合わせて子どもたちを適応させていくものではなく、子どもたちに向き合い、学校が日々変わっていく営みなのです。
 学校給食には、みんなが同じ献立を食べるからこそ、食べる側の子どもには、拒否する自由もあります。納得いかないことには「うん」と言わない。どのような土をつくり、何をどのように育てるのか。何をどのように食べると、私たちの身体はどうなるのか。ある食材を買うという行為には、どんな意味があるのか。どのような調味料を使い、どのように料理するのか。どんな食器で食べるのか。どんな場で誰と一緒に食べるのか。どのように片付け、どのように残ったものを生かすのか。学校教育は、子どもたちに良質な食事を提供するところにではなく、子どもたちとともに食を通して私たち自身の生き方をつくり直していくところに、出発点があります。作る人と食べる人の顔が見える関係のなかで、土をつくり、野菜や果物を育て、食材を買い、料理し食べる場を子どもたちとともにつくる。いのちの循環のなかでおとなも子どもも学び合いながら、生きる。学校には、献立より前に、子どもたちと学びを共有していく菜園と台所と食堂を構想することが必要になります。

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