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学校給食は、セーフティネットである ― 「食餌」から「食事」へ

  給食費未納は、保護者のモラルの問題ではなく、「子どもの貧困」のシグナルです。給食費が未納になる家庭では、電気・ガス・水道など他の未納も起きているからです。日本における給食は、1889年に、お弁当を持たないで学校に来る欠食児童対策として始まり、凶作・災害・戦争・炭鉱の閉山による大規模失業など、子どもの食事を確保する必要に迫られて発展してきました。給食は、子どもへのセーフティネットとして機能しています。学校給食の完全実施が求められるのは、学校給食のない地域で支給される生活保護または就学援助費には、給食費分が加算されず学校における昼食への支援がないからです。(鳫咲子「学校給食から見える子どもの貧困」平松知子・鳫咲子ほか著『誰も置き去りにしない社会へ-貧困・格差の現場から』新日本出版社、2018年、30‐47頁、鳫咲子『給食費未納 子どもの貧困と食生活格差』光文社新書、2018年、参照。)
  現在も、子どもの「食」における格差は、顕著にあります。経済的に厳しい家庭ほど野菜をとる頻度が少ない子どもが多く、小学生においては、野菜と果物の差が優位にみられるという調査結果があります。(村山伸子「子どもの食格差と栄養」阿部彩・村山伸子・可知悠子・鳫咲子編著『子どもの貧困と食格差 お腹いっぱい食べさせたい』大月書店、2018年、27‐48頁。)三食を経済的な理由で食べることができない子どもだけでなく、野菜や果物を食べる頻度が極端に少ない子どもがいるのです。朝食抜きになりがちで、食事内容が主食に偏り、野菜やたんぱく質源となる食品の摂取量が少なく、インスタントや加工品等の簡単な食事が多いことが見えてきています。現在の日本の家庭の家計構造においては、食費がしばしば節約の対象になっており、安価な食物を購入しがちになっているからです。(村山伸子、同上書、参照。)果物がおやつに出ると、家の食事に果物が出たことがない子どもはむすぼるように食べ、果物は好き嫌いが表れるので、いつも食べ慣れている子どもは「これいらん」と言ったりするという保育園の報告もあります。(平松和子「保育現場にみる子どもの貧困と保育所の役割」平松和子・鳫咲子ほか、前掲書、2018年、21頁。)
 こうした事態に対して、子どもに食事を提供する「子ども食堂」という取り組みが広がっています。しかし、子ども食堂の多くは、月に1回、2回といった頻度であり、日々の「食」のニーズに対応できるものではありません。「貧困の連鎖」を断ち切るためにも、子どもの毎日の「食」を保障するという観点から、給食が注目されています。学校給食がある日とない日で食格差は大きくなり、夏休みのあとには、痩せてくる子どもがいるという報告もあるからです。
 給食には、福祉機能があります。保育園なら二食は確保されるからと、ネグレクト家庭に子どもを迎えに行く保育園があります。夏休みに学童保育に給食を提供したり、親子方式で定時制高校の給食を確保したり、地域の人にとって信頼感のある食を中心としたネットワークをどうつくるかが問われています。さらに、食事は、生活の一部であり、食事の支援が必要な子どもの多くは、食事以外の生活のあれこれへの支援も必要としています。そもそも、食事は、食餌ではなく、コミュニケーション機能があります。食べ物の提供や困っている子どもの発見というより、何かを一緒につくる、一緒にご飯を食べる、ご飯の後に一緒に遊ぶことであったり、子どもがおとなに語りうる信頼関係をつくっていくなかで子どもの願いの萌芽をつくることであったり、「支援する-支援される」という固定的な関係ではなく、互いに学び合いながら助けを必要とする子どもの求めに応じて、さらなるおとなのつながりをつくっていく場が求められています。(拙稿「専門領域を越境する教育実践」湯浅恭正・福田敦志編著『子どもとつくる教育方法』ミネルヴァ書房、2021年、214‐227頁。)
 「貧困の連鎖」を断ち切るには、私たち自身がヘルプを出すことから始め、独りでできることではなく、自分たちだけではできないことに取り組む必要があります。さらに、私たちおとながしたいことに子どもを合わせるのではなく、子どもたちの声にならないニーズを聴き、私たち自身のものの見方・考え方を問い直しながら、新しい仕組みを構築する必要があります。(藤原辰史、2020年、前掲書。)
 食べる時間を削って仕事に充ててきた日本のサラーリーマンたちの行き着いた先が「瞬間チャージ」が謳われる栄養機能食品であったように、人間ではなくシステムを優先し、食べることという人類の基本的な文化行為をかぎりなく栄養摂取に近づけている事態に対して、「縁食」という食の形態が提案されています。縁食は、孤食のように孤独ではなく、共食のように共同体意識が強くないものであり、誰もが入りやすく、強制もないものである。ゆるやかな共存の場であり、しなやかな運営を通して、作る人、運ぶ人、調理する人、食べる人が信頼の網の目につながれて、地域に根付く公衆食堂の創出です。すでに関係性がある人たちが食べる場所でもあるとともに、縁もゆかりもない人たちが場所と時間を共有できる場所でもあります。セイフティティーネットを強化するのでもなく、困っている人のみならず、困っていると言い出しにくい人や、困っている現状を把握できにくい人にとっても、敷居が低い場所であるのです。
 私たちが考える学校には、誰も見捨てない社会をつくる機能があるのか。教育と福祉をどのように一体化させ、学校教育と社会教育をどのように融合させていくのか。学校を考えることは、同時に、地域のあり方を考えることでもあるのです。
 

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