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過去は変えられる。

「ん?」と思われる方もいらっしゃるかもしれないが、過去は変えられるのだ。「いやいや、ちょっと待ってよ。過去と他人は変えられない。変えられるのは未来と自分自身だけだ」と思うのは当然のことだと思う。

厳密にいうと、事実関係としての過去は変えられない。しかし、解釈としての過去は変えられるのだ。誤解を承知でいうと、我々は都合よく過去を解釈することができる、ということだ。

「真実なんてのはなぁ、本当は存在しないんだよ。曖昧な記憶の集合体で、それが真実の顔して堂々とのさばってるだけだ。だから、その記憶の持ち主を消せば、真実なんて消えてしまう 」昔、好きだったケイゾクというドラマで渡部篤郎演じる真山がこう呟いていて、厨二病をくすぐるセリフだなあと思っていた。

結局、「この過去は真実だ、間違いない」と思っているのだけど、そう断定しているのは自分だけであって、その過去が真実であるかなんて、誰にもわからない、もちろん自分自身にも同様である、ということなんだと思う。

「思い出が美化されるのは、ただ単にそいつの記憶力が悪いだけだ」と言い放った人がいたが、言い得て妙である。決して完璧ではない過去の思い出はいつまでも輝かしいものに都合よく置き換えられ、「自分は嫌われていた」という偏屈で視野狭窄な思い込みは、自分自身にとって屈辱的なトラウマとして、消えないスティグマとなって刻み込まれる。

Vガンダムに登場するオデロがカテジナさんに討たれたときに、死の最中に脳内に去来したのは「実は父親は自分のことを嫌っていなかった」という真実だった。とても印象的なシーンだった。

だがもちろん正確には真実であるであるかどうかも物語の中で語られないし、オデロの父親との確執など今までいっさい劇中でクローズアップされたことなどないのだ。

だから、それが誰にもわからないし、死に際の超自然的な感覚でそう悟ったのか。自分には、オデロが自らの死に臨んで、生のしがらみから解き放たれて、そのときはじめて「過去の解釈を変え」、安寧に死後の世界に旅立ったようにも思える。

だから、過去は今を生きている自分たちの中で、生き物のように変化していくし、変えようと思えばいつでも変えられるんだ。だから、むしろそんな不確かなものにしがみついていないで、今だけを見ていた方がいいよなってことなんだと思う。

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