わたしたちの問題としてのハンセン病
(NPO現代座レポート2003年発行号より)
日本のハンセン病患者は長いこと、「らい予防法」という法律によって強制収容され、終生家族のもとに帰ることができませんでした。
また、断種、堕胎が強制され、ほとんどの人に子どもがありません。
ハンセン病問題は、実は病気の問題ではなく、憲法によってさえ国民の人権を守ることができなかったという国策と日本人のあり方を問う問題です。
1996年に「らい予防法」が廃止されたときは5000人といわれていたハンセン病元患者も、現在では4000人弱で、平均年齢も75歳を超えています。
20世紀の日本で、ハンセン病患者がどのように扱われてきたかを証言できる人はどんどん少なくなっています。
ハンセン病をめぐる世界的潮流
1930(昭和5)年、国際連合保健委員会で、ハンセン病は特殊な病気ではなく、伝染力・発病力ともに弱く、隔離ではなく治療による予防を重視するという「らい予防原則」が確認されました。
この年、大日本医学会総会に招かれた国際連合保健委員ピウネル博士は、日本政府の無差別的絶対隔離政策を批判しています。
ハンセン病菌(らい菌)は結核菌と同類の病原菌で、その伝染力は結核菌より遙かに弱く、明治以来、国立療養所職員でハンセン病になった者はいないと言われています。
しかし、結核菌が体内の暖かい部分に定着し、表からはわからないのに比べ、ハンセン病菌は涼しい部分に定着するため、顔面、手先、足先の細胞が冒され、外見上はっきりわかるのが特徴です。
ところが、日本ではらい予防原則と逆行し、ハンセン病は恐ろしい伝染病で強制隔離すべき病気だとする非科学的・非医学的な考え方が広がって行きました。
その背後には、「優秀な大和民族の血を守れ!」といった思想潮流があったことは否定できません。
日本政府は満州事変を引き起こした1931年、「癩(らい)予防法」を制定し、徹底的に患者の強制隔離を開始します。
1943年には特効薬プロミンが開発され、欧米では開放外来治療に移行し始めますが、日本のハンセン病患者はまさに国家によって死に絶えることを望まれた人々として扱われつづけました。
新憲法から取り残された人々
1945年の敗戦で、日本社会は180度の転換をとげたわけですが、基本的人権を高らかにうたいあげた新憲法のもとでも、なぜか「癩予防法」は廃止されませんでした。
それどころか、1948年には戦前でさえ非合法であった患者に対する堕胎手術が優生保護法という法律によって合法化されています。
一方、世界的にはハンセン病患者の救済と社会復帰をすすめる世論が高まりつつありました。1951年には第三回汎アメリカらい会議で、1952年にはWHOらい専門員会で、1953年にはMLT国際らい会議で、各国から「人間尊重の立場から開放外来治療政策がとられている」と報告されています。
こうした世界的な潮流とは逆行するように、日本政府は1953年に強制隔離の継続、入所者の外出禁止などを骨子とした新「らい予防法」を成立させ、社会差別をいっそうあおる結果をつくりだしています。
「らい予防法」違憲国家賠償請求事件熊本判決で国会議員の責任(立法の不作為)が問われているのはそのためです。
この「らい予防法」制定に対しては、患者たちの国会陳情、デモ、ハンストと死力を尽くした闘いが展開されましたが、残念ながら労働運動、一般国民からの十分な支援を受けることができず、強行されてしまいました。
その後、日本代表も参加した1956年の「らい患者の救済と社会復帰のための国際会議」では差別的法律の撤廃、在宅医療の促進をうたったローマ宣言が採択されています。
さらに1958年の東京で開かれた第七回国際らい会議では日本政府による「らい予防法」の全面的廃棄が勧奨されてもいます。
にもかかわらず、日本では「らい予防法」を廃止しようとする動きは見られませんでした。
ハンセン病患者たちのたたかい、国際世論の圧力に押され、「らい予防法」が廃止されたのはやっと1996年になってからでした。
ローマ宣言から38年後のことです。
1907年の「癩(らい)予防ニ関スル件」制定からすると実に90年間にわたって、日本のハンセン病患者は世界でもまれな人権侵害を受け続けてきたわけです。
国の憲法違反を問う訴訟
「らい予防法」は廃止されましたが、患者たちの人権が回復されたわけではありません。
長年の強制隔離によって生み出された社会的偏見や差別は法律の廃止だけで消滅するものではないからです。
社会差別をなくし、患者の社会復帰を支援する施策が必要です。
しかし、そうした政策は全くとられませんでした。
1998年7月、熊本と鹿児島の13人の元患者によって「らい予防法」違憲国家賠償請求の訴訟が起こされました。
訴訟制度の制約上、「賠償」という形でしか政府の責任を問うことができませんでしたが、訴訟の目的は「人間としての尊厳」の回復でした。
そのためには
1:ハンセン病問題の真相究明と国の謝罪、
2:入所者・退所者が一般国民としての社会生活が営める保証、
3:社会差別の撤廃
などでした。
この訴訟は次第に元患者の間に共感が広がり、1999年3月には東京地裁に22人の元患者が、同じく8月には岡山地裁に11人の元患者が提訴し、大きな運動になっていきました。
そして1956年に「らい予防法」が強行されたときと違って、広く世論の支持も寄せられるようになりました。
ついに2001年5月の熊本地裁判決で、「らい予防法」をつくりだした政府と、法案を決議した国会議員の責任が問われることになったのです。
結局、国側が控訴を断念し、2002年2月、ひとまず司法上の解決を実現し、元患者の社会復帰の道が開かれました。
共生をめざす運動へ
しかし、長年の強制隔離政策によって生み出された社会差別と偏見はそう簡単に消えるものではありません。
政府が約束した真相解明はほとんど進んでいませんし、ハンセン病元患者への嫌がらせや中傷は今なお続いています。
元患者たちの原告団は引き続き、社会差別・偏見の壁を打ち破る運動へと足を踏み出し、支援の輪も広がりつつあります。
ハンセン病元患者の人権回復を支援する運動は、気の毒な被害者を守る運動から、いま、21世紀のわたしたち自身の共生のあり方を問う運動へと変貌しつつあります。
(記・木村 快)
NPO現代座Homepage http://www.gendaiza.org/
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