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6.診断に代わることばと出会う(谷田朋美)|私たちのとうびょうき:死んでいないので生きていかざるをえない

「私たちのとうびょうき」は、弁護士・青木志帆さんと新聞記者・谷田朋美さんによる往復ウェブ連載。慢性疾患と共に生きる二人が、生きづらさを言葉に紡いでいきます。今回は、谷田朋美さんの担当回です。

ようやく梅雨が明けましたね。雨にも風にも夏の暑さにも負けて、すっかり寝込んでいました。天候と体調の変化が見事にシンクロする天気予報いらずのからだになったのも、考えてみると「脳脊髄液減少症」(注1)の診断を受けてからですね。台風の到来ともなると台湾海峡辺りから感知するほど精度は高いです。 

病を語る言葉がない

 さて、前回は、診断名で語られることに苦痛を感じている自分がいた、というところで終わっていました。診断がついたにもかかわらず、自分の苦痛について語ることばがどこにもない状態に陥っていました。病について沈黙せざるを得なくなっていたのです。

せざるを得ないと言いますか、そもそも、病のことを語らない理由だっていくらでもあったわけです。私が病のために社会や医療機関からどのような扱いを受けてきたかを詳細に話すだけで、「責められている」と感じる人はいるでしょうし、私自身、「ややこしそうだから付き合いたくない」などと誤解されてさらに傷つきたくはないのです。健康が称揚され、病人が想定されていない社会には憤りを感じてきましたが、「だらしない」「甘えている」という評価を受け入れているほうが周囲との軋轢を生まないだけ楽ではないか、と諦めてもいました。

本来なら、青木さんと出会うこともなかったはずです。でも、現に今、私は病について語っている。実は、診断に代わることば、病のことを公の場で語るための新しいことばを探す契機が、友人の死によってもたらされたからなのです。 

「話が伝わる人がいる!」

今振り返ると、私にはずっと、病について一緒に考えてくれる友人がいました。誰にも語れなかったわけではないんです。

友人とは大学時代、「ことば」をきっかけに出会いました。大学のゼミのメーリングリストにうっかり病のことをつらつらと書き送ってしまい、ただひとり「よくぞ生き延びてきましたね」と返事をくれたのが友人でした。初めて「話が伝わる人がいる!」と感じたのでした。実際、友人も原因のよく分からない体調不良に苦しんでいたのです。私たちはすぐに意気投合し、痛みや倦怠感がひどい時のやり過ごし方について、効果のありそうな治療について、理解されず傷ついた出来事について、頻繁に知恵や経験を交換してきました。

3年間の休職中、東日本大震災が起きました。多くの記者が東北に向かうなか、私はベッドで寝ていることしかできませんでした。記者としてはやはり悔しかったですし、自分の苦労などたいしたことないとも思いました。誰にも連絡できませんでした。そんな時でも、友人とはやりとりしていました。電話の合間に「しんどい。薬飲む」と中断されることもしょっちゅう。同じような病の苦痛や不安を経験してきた当事者だから、理解し合えるのだと思っていました。

でも、そうではなかったんですね。

友人が最期に残した問いを求めて 

「どんな薬も治療も効かない。どうすれば救われるのか」。復職して3年が経った頃、体調の悪化に苦しんでいた友人の訴えに「甘えているのでは。自分だけがつらいと思わないで」と突き放す言葉をかけていました。仕事していく自信を取り戻しつつあった私は、度重なる深夜の電話を負担にしか思えなくなっていたのです。友人は絶句して電話を切りました。約1カ月後の2016年2月、友人は路上で突然倒れ、36歳で亡くなりました。ご両親によると、運ばれた病院では死因が分からず、最終的に東大病院で司法解剖が行われ、担当刑事から「他殺でも自殺でもないことは分かった」とだけ告げられたそうです。

訃報を受けた時、私もまた、医学で明確に説明できない病を理解しようとしない社会のひとりだった、ということを思いました。突然の死を理解できず、泣くこともできないまま、しばらく自宅やパソコンの中に残された友人の痕跡を探してばかりいました。SNSのチャットに「長生きしましょう」ということばを見つけました。亡くなる直前、よく「長生きすることはひとつの救いだ」と口にしていたことを思い出しました。若くして逝ったことは、救われなかったことになるのか。私はそう考えるのか。「どうすれば救われるのか」という友人の最期の問いは、私自身の問いでもあったはずです。なぜ、私は友人を追い詰めることばをかけることしかできなかったのか。

数年が経つうち、友人が残した問いは、社会に聞かれるべき問いである、と信じるようになりました。とはいえ、客観的かつ中立であることを旨とする新聞では、私や友人の体験をただ書いても「医学のエビデンスがない」として却下されるだけ。診断の代わりとなることばに受け止めてもらう必要がありました。実は、私の置かれている現状を指し示してくれることばは、医学ではなく人文・社会科学の中にあったのです。

ただ、そのことに最初から気づいていたわけではありません。精神疾患の当事者らが自らの苦労を研究対象とし、グループで対話しながら対処法を探る「当事者研究」の現場などを訪ね歩き、ことばにする糸口を探しはじめたものの、アカデミズムの場にはあまり目を向けていませんでした。当時は「あなたの話は非科学的だ」ということで聞いてもらえないだろう、と疑っていたのです。だから、当事者研究を主催する方の紹介で、関西の自助グループに詳しいという大阪大大学院人間科学研究科の村上靖彦教授(現象学)にお会いし、病について打ち明けたところ、「痛みを否定されることは暴力です」と返答されて驚きました。「語られるべき話だ」と励まされたように感じ、友人と対話していた時の「話を聞いてもらえている」という感覚がよみがえってきたのです。村上教授の紹介で、難病に詳しい野島那津子・静岡文化芸術大准教授(医療社会学)と出会いました。野島准教授から「病名がないのに、人がただ患っていることを、社会は許容しない。あらゆる検査で病理的な異常が見つからなければ、精神疾患の診断や詐病という評価が与えられます」と教えられ、ようやく自分の立ち位置が見えてきた気がしました。病名がないと「我慢が足りないのでは」といった精神面のみに注意が向き、「詐病」に逃げ込もうとしているのではないかと自分でも疑ってしまう。友人の苦痛に対しても、取るに足らないのではと思ってしまっていたことに気づかされました。野島准教授のことばがあって初めて、「『ただ患う』ことを受け入れたい」ということばが口をついて出てきました。新聞の見出しにできることばに、ようやく出会えたのです。

とはいえ、自分だけの問題ではないか、という疑念を払拭することはできませんでした。そこで、医師で医療社会学者の美馬達哉・立命館大教授をたずねたところ、「近代医学は臓器別に病気を見つけることが主流で、身体のシステムなどについては不得手。医学的に解明されていない病はあります」と指摘してくださいました。

私自身、診断そのものを否定したいわけではありません。原因究明が決定的に重要なことはあります。難病の歴史をみると、身体的疾患と認められるには、医学による明白な裏付けが不可欠であることが分かります。例えば「抗NMDA受容体脳炎」は07年に医学的に解明されるまで、精神疾患や悪魔つきと見なされていました。ただ、検査で異常が表れない症状に苦しむ人間は、医療現場で不適切な扱いを受けるリスクがありますし、何より、医学の進歩を待つことなく今を生きていかなければなりません。

2021年12月、自分の体験をもとに「統計には表れないが、医学で明白に説明できない病を抱えている人は少なくないのではないか」と新聞記事で投げかけたところ、読者から50通もの手紙やメールが届きました。診断がつかない、確定しない、あるいは医学界で論争のある病の当事者の「自分もそうだ」という声をはじめ、医師からも「検査で異常がない症例に出会い、どう対応すればよいか悩んでいる」という声が寄せられたのです。こうした声が、社会にほぼ聞き取られてこなかったことに改めて気づかされました。考えてみると、私の主症状である慢性的な痛みや疲労は、多くの疾患で見られる症状でもあり、原因は解明できずとも困りごとには共通の面があるはずです。新聞記者として、医学はもっと痛みや疲労を和らげることを重視してほしい、社会は痛みや疲労のために「できない」ことに対してどう支援できるのか考えてほしい、と言っていくことは重要なのだと、読者に教えられました。

治療とは違う、私の回復

亡くなった友人は音楽が好きで、おすすめの曲をCDに入れて送ってくれたことがあったのですが、CDケースに「ヤバいから気をつけて」と殴り書きされていて、私は一度しか聴きませんでした。それを十数年ぶりに引っ張り出してきて再生したら、「親離れするまでまだ半人前」「衣食住だけ確保しろ」(注2)とたたみかけるようにラッパーのことばが流れ込んできました。友人の肉声を聞くようでした。病気のため仕事が続かず、職を転々としていた友人。治らない症状を抱えながらひとり自立していくことは厳しかった、と言い合いたい気がしました。

今、「怠けている」などと誤解を受けている人は、私のような病者だけではないはずです。能力主義が大手を振るう現代、「できない」ことがあれば、その理由を簡潔に説明することを求められます。実際には、一人ではなかなかことばにできないものの中に、その人の困難があります。
 
友人を支えられなかった自分には、新聞記者の資格はないと思ってきました。でも、そんな私だからこそ、まずは自分の病について語ることから始めたい、と新聞には書きました。友人はいつも「朋美さんにしか語れないことばがある。それを書いてほしい」と言って励まし続けてくれた人でもあったからです。

とはいえ、まさか本当に記事を読んで「病について聞かせてほしいし、私の話も聞いてほしい」と声をかけてくれる人が現れるとは思ってもいませんでした。そう、青木さんのこと。生きているって面白いですね。

私はずっと、病は医療でしか救われないと思ってきました。でも、そうではなかった。傍らにいて、まとまらない話を聞いてくれる存在が、私の救いだったのだと今は思います。

この連載そのものが、治療とは違う、私の回復の記録なのですね。

注1 日本の脳神経外科医によって、交通事故やスポーツ外傷後のむち打ち症による後遺症の原因として、髄液が漏れて減少する「脳脊髄液減少症」が提唱されるようになり、メディアなどを通じて認知が広がった。治療法としては、RIシンチ検査など腰椎穿刺後の体調不良に用いられてきたブラッドパッチ治療がある。ただ、医学界では因果関係や治療法をめぐって論争があり、交通事故などをめぐる損害保険会社との補償とも絡んで、被害者らの救済が社会課題となってきた。
 
注2 Shing02「400」ヤバい曲。
 

谷田朋美(たにだ・ともみ)……新聞記者。1981年生まれ。15歳の頃より、頭痛や倦怠感、めまい、呼吸困難感などの症状が24時間365日続いている。2005年、新聞社入社。主に難病や障害をテーマに記事を執筆してきた。ヨガ歴20年で、恐竜と漫画が大好き。立命館大学生存学研究所客員研究員。

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