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また別の意味での合理性

その時が過ぎれば「いい思い出」になるのだけれど、でも、その渦中にあるときは、本気で悩み、苦しくなるようなことがある。
例えば、わが子の…まだ乳児であったころの、わが子の泣き声。

うるさい。
噂には聞いていたけれども、本当に、うるさい。

仕事の都合でタイトな睡眠時間しかとれない夜にギャン泣きされると、正直イライラするし、ひどいときには激しい怒りすら覚えてしまう。
電車やらバスやらで爆発され周囲の視線が気になり、「あー、うるせぇ! いいかげんにしろ!」などと心で叫びながら途中下車したことだって、一度や二度じゃない。
そうしてそのあと、必ず、凹む。
わが子の泣き声に、イラついてしまったことに。
たとえ心の中とて、わが子を罵倒してしまったことに。
強烈で痛切な、自己嫌悪。
ただ、これがまたなんとも不思議なのだが、例えば公共の乗り物で他の家族のあかちゃんがギャン泣きしても、実はあまり気にならなかったりするのだ。それどころか、「おーおー、やっとるやっとる笑」などと、微笑ましく思えさえする。ところが、いざ自分の子どもが泣き始めると…また「あ"ぁぁぁぁ…」となってしまい…挙げ句の果てには、「他人のあかちゃんの泣き声はかわいく聞けるのに、自分の子どもの泣き声には激しくイラつくなんて…自分はもう、親失格だ…」などと、負のスパイラルに陥ってしまうのである。

そんなときだった。
僕は、こんな話を聞いたのだ。それは、

わが子の泣き声にだけイラつくのは、当然だ。なぜならあかちゃんは、親に自らの"危機"を確実に悟ってもらうため、親が最も不快に思う声で泣くからだ。

という趣旨だった。
まぁたぶん、〈物語〉に過ぎないのだろう。
おそらくは、科学的な検証に基づく考え方ではないのだろう。
けれども、僕はこの〈物語〉に救われた。
わが子の泣き声を不快に思ってしまう、そんな自分を嫌悪したあの頃、僕はこの〈物語〉のおかげで自分を許せるようになったのだ。

繰り返すが、「あかちゃんは、親に自らの"危機"を確実に悟ってもらうため、親が最も不快に思う声で泣く」などというのは〈物語〉であり、そこに科学的な合理性はないのだと思う。でもしかし、その〈物語〉は、確実に、僕という一人の人間を救ってくれたのだ。すなわちその〈物語〉は、僕という人間を生かしめるための、ある種の合理的な機能を有していたということになる。

科学的な合理性とはまた別の合理性。

人が生きていくうえで、それは、科学的な合理性とともに、やはり欠かすことのできないものなのではないだろうか。

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