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安積宇宙『宇宙のニュージーランド日記』(ミツイパブリッシング)を読んで

「パワーをもらえました」で終わらせない、ということ

 著者の安積宇宙(あさか うみ)は、ニュージーランドに在住する女性。1996年生まれで、障がい分野を専門とする研究所で働く研究員である。自身もまた、母親から「受け継」いだ障がいのため、車いすで生活をしている。本書の少なからぬ箇所に、障がいを自らのアイデンティティとして生きる著者の矜持を読み取ることができる。

 そんな著者は、母親のことを振り返り、次のような言葉を綴っている。

母はとてもパワフルな人で、障がいを持って自立生活することはまだめずらしい時代に、いろんな人と助け合えるコミュニティを自ら作り、街での暮らしを手に入れてきた。

安積宇宙『宇宙のニュージーランド日記 なつかしい未来の国から』(ミツイパブリッシング) p. 7

 なるほど、著者は母親の障がいだけではなく、この「パワフル」さもしっかりと「受け継」いだのだろう。まさに、本書に記された安積のこれまでの人生は、圧倒的に力強い。強靭な意志と行動力とで自らの未来を切り開いていくそのパワーに触れることが、本書を読むことの最も大きな意味の一つであることは間違いない。

 ただ、同時にこうも思う。それは、本書を読んだ感想が、「この本を通じて著者のパワフルな生き様に触れることができ、自分もパワーをもらえました」といった類のものに終わってはいけないということだ。少なくとも、この私においては。

 もう一度、上に引用した著者の言葉に目を通してみてほしい。そこには、自分と同じ障がいを生きる母親について、「街での暮らしを手に入れてきた」と述べられている。

「手に入れてきた」。

 この表現は、軽く受け取っていいものではない。著者の母親は、「街での暮らし」を当たり前のように暮らしてきたのではなく、それを「手に入れてきた」のである。逆に言えば、意図して手に入れようとしなければ、「街での暮らし」という、例えば私であれば何の苦労もなく享受するものを、手にすることはなかったということだ。

 社会言語学の研究者あべ・やすしの著した、ことばのバリアフリー』(生活書院)という本がある。そのなかの一節を、以下に引用しておこう。

公共のものは「みんなのもの」である以上、特定の人だけにではなく、「すべての人に開かれている」必要がある。それが実現できていない社会の側に、障害があるのだ。つまり、こうした問題意識からすれば、障害とはバリアのことである。

あべ・やすし『ことばのバリアフリー』(生活書院)p. 27

 なるほど。例えば「街」は、「公共」の空間である。であるならば、「公共」という概念から導き出される論理的帰結として、この社会を生きるすべての人にとって「開かれてい」なければいけない。では、現実には、どうか。例えば目の見えない人や耳の聞こえない人は、目が見え耳が聞こえる人と同等に、「街」を享受できていると言えるだろうか。もし言えないなら、その原因は何か。それは、「公共」の場をうたっておきながら、目が見えない人や耳が聞こえない人への配慮を欠き、その場を享受するという権利からそうした人々を排除してしまっている、「街」の側にあるのではないか。そしてその「街」のありように安住してしまっている、この私や、あるいは社会の側にあるのではないか。つまり「障害」とは、それを”持つ”とされる人々に属するものではなく、私や、社会の側が作り出しているものなのではないか━━あべの言葉は、そうした論点を言うものと思われる。

 であるなら、宇宙のニュージーランド日記の著者、安積宇宙が自らの母親について言う、「街での暮らしを手に入れてきた」の「手に入れてきた」という表現、すなわち、意図して手に入れようとしなければ「街での暮らし」を手にすることは不可能だったということを含意するこの言葉は、あべの指摘する意味での「障害」を、この社会が作り出してきたという事実を如実に語るものと言えるだろう。

 本書を読んだ感想が、「この本を通じて著者のパワフルな生き様に触れることができ、自分もパワーをもらえました」で終わってはならない。

 先ほど私がそうした旨を述べたのは、私もまた、「障害」を作り出す社会に安住してきた━━ということは、この社会に「障害」を作り出している一人の主体だからである。本書を読み、おおいに感化され、触発された私には、こうした現状に対して無言のままでいることは許されない。本稿も、そうした思いに駆られてしたためている。


ただ……

 ただ、一つ、付言しておきたいことがある。この宇宙のニュージーランド日記において、安積の言う「障がい」やあべの言う「障害」は、確かに重要なモチーフではある。けれども、本書の主題は、決してそこに限定されるものではないのだ。そのことは、ここに強調しておきたい。

 例えば著者は、留学し、そして今でも暮らすニュージーランドという土地の先住民マオリの言葉や考え方を、積極的に紹介する。「私は川であり、川は私」というマオリの考え方について、以下のように解釈するくだりなどは、思わず「なるほどな……」と嘆息させられる。

私たちと自然は、別々の存在ではなく、おたがいがつながっているということを、深く感じさせる言葉だ。

安積、前掲 p. 52

 あるいは、以下の記述などもおもしろい。

 マオリの人たちの自己紹介は、自分の一族に深くつながりがある山の名前から始まると、大学の授業で習った。そして、川の名前、ニュージーランドにやってきた時に使った船の名前、一族の名前、出身地、家族の名前、親の名前、今住んでいるところ、そして自分の名前、と続いていく。

安積、前掲 pp. 52-53

 自己紹介に、自分たちの祖先が「ニュージーランドにやってきた時に使った船の名前」を名乗るとは……! 文化の違い、世界の捉え方の違い、自分という存在についての認識の違い━━つまりは、この世界を形作る多様性について、深く感じさせてくれる一節だろう。

 それに、本書の少なくない部分を占めるのが、青少年期にあった著者の、日常や、友情や、恋愛や、アイデンティティや、性や、将来についてなどの思いから生じる悩みや葛藤についての記述である。例えば以下は、様々なためらいや試行錯誤を経て自分の進みたい大学をやっと見つけることのできた著者の言葉だ。

 そういう大学以外の場所のことは、実際に行ってみないとわからないことがほとんどだろう。でも、そこでどんなことが盛んなのかなど、自分が行きたい大学のある街について調べておくことも、とても有効だと思う。

安積、前掲 p. 43

 具体的な経験や実践を踏まえながら得られた著者の考え方、思想、あるいは人生哲学。それらは例えば、十代の高校生や若者たちにとって大きな指針となり、彼らのモチベーションを喚起するに違いない。とりわけ、将来や自分自身のありように悩むなら、ぜひともめくってほしい一冊だ。

 もちろん、著者より約20年も前に生まれた私も、この宇宙のニュージーランド日記から、様々な励ましや示唆を得ることができた。何より、平明かつ真摯な筆致は、読んでいて楽しい。読書というものの純粋な喜びを教えてくれる。

 前言撤回。おすすめの対象を若者に限る必要はないね。

 本書を通じ、一人でも多くの読者が自らの将来へ向けて一歩を踏み出すことを、心から期待します。本書には、それだけの力が、ある。


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