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口承文学とフォーミュラ

昔、アイヌ語を勉強していた時に、O先生から教わったとても興味深い話があります。うろ覚えなので、詳細に誤りがあったらすみません。

英雄叙事詩は、長いものだと数時間レベルの語りになることがある。
では、そのような長い物語を、語り手はすべて暗記しているのか?
もちろん、否。
語り手が覚えているのは、核となる場面の典型的内容(=フォーミュラ)だけ。
そして、各フォーミュラ間の"つなぎ"を、語り手が独創的、アドリブ的に紡いでいく。

ということは、同じ物語でも、語り手の数だけ…いや、同じ語り手でも語るごとに"つなぎ"の内容はズレるだろうから、"語りの数だけ物語が存在する"ということになりますよね。
でも同時にそれは、例えば『〇〇の物語』という形で、"ある一つの物語"への収斂を志向しもするわけです。

多声性と収束性の拮抗が作り出すダイナミズムが、語り手個々人の口という身体器官を媒介として、悠久の時の中で自らを創造し続ける…!

口承文芸ってすごい…とゾクゾクしたことを、今でもはっきりと思い出します。

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