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本のプレゼン~太宰治「駆込み訴え」~
愛とは何か
いきなりですけど、誰かのこと、愛したことありますか。
もちろんいわゆる恋愛において、という意味で考えてもらってもいいし、なにも恋愛とかに限らなくてもいい。
そもそも、「恋愛」という言い方って、どうなんでしょう。
言うまでもなく、「恋」と「愛」とが組み合わさった言葉なわけですが、この二つの語、並べて使われると、なんだか違和感があるというか、なんというか……。
いや、語源的にどうとか、学術的になんだとか、そういうことではなくてですね、あくまで、私たちが暮らす現代の社会において、この二つの語が、どういったイメージのものとして流通しているのか、そうした点から考えると、おそらく、「恋」と「愛」とって、完全に重なり合うイメージではない。
え、あまり腑(ふ)に落ちない?
なんと。
では、そうですね……ちょっと具体的なケースを参照しながら考えてみましょう。
【ケース1】
生徒A「三組にさ、田中っているじゃん」
生徒B「ああ、あのバスケ部の?」
生徒A「そうそう」
生徒B「で、その田中がどうしたのよ」
生徒A「……」
生徒B「ん?」
生徒A「……よくね?」
生徒B「は?」
生徒A「いや、だからさ、なんか、よくね? 田中」
どうでしょう。生徒Aは、今、「田中」のことを〝恋しちゃってる〟のでしょうか、それとも、〝愛しちゃってる〟のでしょうか。うん、ここはどう考えても、前者、すなわち〝恋しちゃってる〟のほうがしっくりきますよね。
では、次のケースはどうでしょうか。
【ケース2】
地球人X「たとえ地球と火星とが戦争していても、私たちには関係ない」
火星人Z「プルメッポプルプルッポ!(直訳…誰も私たち二人を引き裂けない!)」
地球人X「おお、Z! ともに永遠(とわ)の星に!」
火星人Z「メリペッピョ、ピピョ!(直訳…永遠の、星に!)」
(地球人Xと火星人Z、宇宙空間で熱い抱擁を交わすイメージカット。背後には、爆発する地球と火星。その光に包まれてゆく二人)
うーん、これは壮大なスペースオペラ。この二人、たぶん、自分たちの思いを遂げようとして、それぞれの母星を裏切ってますね。さらに、互いの命を犠牲にしてまでも、二人で「永遠の星」になろうとしている……なんて背景を想像しちゃうと、二人の思いを表す言葉に「恋」を選ぶことは、ちょっとためらわれるのではないでしょうか。ここはもちろん、「愛」がぴったりくる。
うん。
やはり「恋」と「愛」とは同じじゃない。前者は軽い文脈でも使える言葉だけれど、後者は、イメージとして、重い。あるいは、シリアス。もう、相手のことしか見えない。たとえほんのひとときであっても、相手と思いを遂げることができるなら、他の大切なものは、すべて、犠牲にしてしまってかまわない。この世のすべての人間に恨まれても、その人と一緒にいられれば、それでいい。その人無しでは、生きていくことなどかなわない――万事が万事というわけではないでしょうが、それでも、愛という言葉からは、そこまでの重みを読み取ることができます。恋はいずれ愛になる可能性を含んではいるけれども、そうなるには、まだまだ。
【ケース3】
人「おお、なんという速さ! お前はなんてすばらしい馬なのだ!」
馬「ひひーん!(直訳…えっへん!)」
人「私とお前は一心同体」
馬「ひひんひひん!(直訳…まじ嬉しいっす!)」
人「もう絶対に手放さない! いつまでも一緒だ!」
馬「ぶるぶるぶるぶるんっ!(直訳…あなた以外は死ぬまで乗せません!)」
うん。この二人?の思いも、言葉にするなら、やはり「恋」ではなく「愛」でしょう。となると、愛という言葉は、どうやら恋に比べて重たくてシリアス、というだけではなくて、その思いの相手をいわゆる恋愛的な他者に限定しない――ばかりか、ときに種の壁を越境するとすら言えそうですね。人も馬を愛せるし、馬も人を愛せるわけですから。そしてさらには、「郷土愛」や「自然愛」なんていう言い方もあるくらいなので、思いの対象は生物の範囲までをも超える。愛は、重い。そして、無限定。
ということで、ここでもう一度、冒頭の質問を繰り返しておきます。
誰かのこと、愛したことありますか。
好きな人や恋人のことでもいい。家族や友だちだって、はたまた、会ったこともない有名人や、歴史上の人物、漫画やアニメのキャラクター相手であってもいい。もちろん、動物でも、植物でもかまわない。あるいは、生物でなくてもいい。「あ、好きかも」みたいな軽いノリではなくて、より深く相手を欲し、時に、その相手なしでは生きていけないというほどに、悶(もだ)え、苦しむ――そんな思いを、抱いたことがあるでしょうか。
え、あります、って?
なるほど。ならばそんな「愛」を知るあなたには、ぜひぜひ読んでほしい小説があるんです。その小説を読めば、あなたはきっと、「ああああああ、わかる……わかるぅ」ってなる。この「わかるわかる」を味わうことができるのは、小説を読む楽しみのなかでも、かなり大きなものです。「愛」を知るなら、この作品、読まない手はない。
え、あなたは、ない、と。
ふむ――では、そんな「愛」を知らないあなたには――いや、あなたにも、この作品は、なんとしてでも読んでほしい。なぜなら、いつかあなたにも、「愛」を知るそのときがくるから。いまだ経験していない思いに、フィクションの世界で前もって触れておく。これもまた、小説を読むことの、大切な要素の一つなのです。
私のイチオシ!――太宰治『駆込み訴え』
太宰治という作家がいます。
ご存じですよね。そう、あの『走れメロス』の作者です。文学の好きな人なら、他にも『人間失格』や『斜陽』などの名前は聞いたことがあるでしょうし、あるいは、すでに読んだという人もいるかもしれません。「富士には、月見草がよく似合ふ」で有名な『富嶽(ふがく)百景』、ナンセンス文学の傑作『ロマネスク』、誰でも知っている瘤(こぶ)取り爺(じい)さんや浦島太郎、かちかち山、舌切り雀などの昔話を自由自在に読みかえてしまった『お伽(とぎ)草子』――いずれも名作中の名作なので、ぜひ、読んでみてください。
ですが、今回紹介しようと思っているのは、『駆込(かけこ)み訴え』という短編なんです。上に挙げた作品に比べれば、ちょっぴりマイナーかもしれません。でも、いい。めっちゃ、いい。なぜならこの『駆込み訴え』こそが、愛――どうしようもないほどに相手を欲し、身も千切れるばかりに思い、悩み、胸を掻(か)きむしり、七転八倒する――そんな、愛という感情を、これでもか!というくらいに見事に表現した作品だからです。
愛。
そうなんです、愛なんです。
皆さん、あれでしょ? 太宰の作品と言えば、暗いとか危ないとかだらしないとか、きっとそんなイメージを持っているんでしょう? 違う、違うんですよ。太宰は決して、そんな作品を――あ、いや、書いていないわけではないですが、でも、でもね、太宰の小説の面目躍如たるところは、真骨頂は、愛、愛なんですよ愛! ここのところをですねっ、私はねっ、声をっ、大にしてっ、訴えていきたいわけですよっっっっっっ!
……はぁ、はぁ、はぁ……いや、すみませんでした、ちょっと興奮してしまいました。落ち着きましょう、はい。ぜぇ、ぜぇ……。
というわけで、太宰治『駆込み訴え』の冒頭を、少し引用してみたいと思います。なお、『駆込み訴え』の引用は、ここ以降も含め、すべて青空文庫からになります。
申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭(いや)な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。
話しているのは、あの、ユダです。イエス・キリストの十二人の弟子、すなわち十二使徒のうちの一人でありながら、イエスを裏切り、敵側に銀貨三十枚で売ってしまった人間です。イエスが十字架に張り付けられ、殺されてしまう、その原因となった人物です。『駆込み訴え』は、最初から最後まで、そんなユダの一人語りで綴(つづ)られる作品。しゃべってます。とにかくずっとしゃべりかけています。誰にか。「旦那さま」に。
では、「旦那さま」とは誰か。
これがまさに、ユダが銀貨三十枚でイエスを売った相手です。つまり『駆込み訴え』は、イエスを裏切り、敵に売ろうとするまさにその場面におけるユダの言葉を、太宰が想像して小説にしたものなのです。
となると、「あの人」とは誰か。ユダによって「酷い。酷い」と非難され、「厭な奴」とか「悪い人」、さらには「生かして置けねえ」とまで言われている、このかわいそうな人物は。
もちろん、イエスということになります。
つまり『駆込み訴え』は、イエスを裏切り、敵に売り飛ばしてやろうとするまさにその時において、ユダが、師匠のイエスをボコボコに悪く言う、そんなシーンから始まるわけですね。
ん?
まったく愛とか関係ないじゃん、むしろ正反対じゃん、ですって?
ふふふ……。
なるほど、確かにユダは、冒頭に続く語りで、こんな恐ろしい言葉すらまくしたてています。
あの人を、生かして置いてはなりません。世の中の仇(かたき)です。はい、何もかも、すっかり、全部、申し上げます。私は、あの人の居所(いどころ)を知っています。すぐに御案内申します。ずたずたに切りさいなんで、殺して下さい。
いや、怖い。近寄りたくないタイプの人間ですね。何の因果か知りませんが、自分の師匠にあたる人を、「ずたずたに切りさいなんで、殺して下さい」だなんて、恐ろしいったらありゃしない。憎んでいます。相当に憎みまくっています。
けれどもですね、このユダ、しばらくすると、かつてイエスに向かって言ったこんな言葉を思い出しながら、口にしたりもするんです。
私はあなたを愛しています。ほかの弟子たちが、どんなに深くあなたを愛していたって、それとは較(くら)べものにならないほどに愛しています。誰よりも愛しています。
ほう。
愛している、と。
さらには、こんな言葉まで。
私はあの人を愛している。あの人が死ねば、私も一緒に死ぬのだ。あの人は、誰のものでもない。私のものだ。あの人を他人に手渡すくらいなら、手渡すまえに、私はあの人を殺してあげる。
……うん。愛が溢れていますね。ドバドバ溢れすぎて、もはややばいゾーンに入ってしまっています。これ、あれですよ、映画やドラマや漫画とかだったら、うっすら口もとに笑いを浮かべて、開きぎみの瞳孔で宙を見つめながらつぶやくやつです。「私はあの人を殺してあげる」。いやいや、「殺してあげる」って。おお、こわ……。
愛。
そして、憎悪。
イエスという一人の人間に対して、ユダという同一人物の心の内で、相反する思いが同時に湧き起こり、そして、激しく争っている。
けれども、これは矛盾でしょうか。
私はそうは思いません。
どうしようもないほどに相手を欲し、身も千切れるばかりに思い、悩み、胸を掻(か)きむしり、七転八倒する――愛という激情にとり憑(つ)かれた人間は、おそらく、愛しているのに憎む、のではなく、愛しているからこそ、憎む。憎しみの深さは、きっと、愛の深さでもあるのです。
それでは、ユダは、なぜそれほどまでにイエスを愛するのか。
そして、どうしてこんなにも、イエスを憎むのか。
きっとそれは、ユダにも、完全にはわかってはいない。彼自身、
ああ、もう、わからなくなりました。私は何を言っているのだ。そうだ、私は口惜しいのです。なんのわけだか、わからない。地団駄踏むほど無念なのです。
と、煩悶(はんもん)しているのですから。
けれども、ユダの言葉の一つひとつを丁寧に追いかけていけば、きっと、ユダの愛、そして憎しみのわけを、そのすべては不可能としても、皆さんなりに推し量ることができるでしょう。そしてある人は、「……わかる……これこそが、愛……」となり、またある人は、「……知らなかった……愛とはこれほどまでに……」などと、思わずうなってしまうに違いありません。そうしてそのうえで、ユダの最後の言葉を読むならば――ああ、言いたい。言ってしまいたい。こっちに揺らぎ、あっちにぶれるユダの愛憎は、果たしてどのように着地するのか。どのような言葉によって、この愛の物語は閉じられるのか。もうここで、皆さんに言ってしまいたい――。
……のですが、我慢します。それはぜひぜひ、皆さんの目で確かめてみてください。そのうえで、そこに込められたユダの思いについて、あれこれ考えてみてほしいんですね。
というわけで、私による〈本のプレゼン〉は、ここまでです。ご清聴、ありがとうございました。……あ、そういえば申しおくれました。今回プレゼンを務めました私の名は、予備校講師の小池陽慈。へっへ。現代文講師の小池陽慈。
編集を担当させていただいた、『つながる読書 ──10代に推したいこの一冊』(ちくまプリマー新書)、おかげさまで、嬉しいご感想をたくさん頂戴しております。本の読み書きに携わる文章のプロフェッショナルたちによる、10代に向けての〈本のプレゼン〉、ぜひぜひお楽しみください(^▽^)/