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学生の頃1990

ワープロも所持していなかったあの頃、ルーズリーフに罫線を書き、それをコンビニで10円コピーして、進行表。
学生たちで作る(遊ぶ)ラジオ風番組制作に没頭していた。

当時はAMラジオに特化した雑誌もあったので、そこで交流を持って集まった”メンバー”は10人ほどか?学校は違うけれど、聴いているラジオは違うけれど、目的意識は一緒だった。

二十歳を前に”音響効果”のポストプロダクションに私は入社をしたので、「ラジオごっこ」はする事が出来にくくなり、同年代の多くもこのタイミングでリアルな就職をし、その想いは空中で分解した。

ただ、今でもその頃の志を持って、それに近い事をして、職業としている連中も多く、私もその一人だ。

音響効果プロダクション、動画配信会社技術職を経て、フリーの音声コンテンツの制作で何とか食い繋いでいる。

同じように「ラジオごっこ」を経て、現在、放送作家や、ラジオ局の営業。DJしている所にスカウトがかかって、ナレーターとして暮らしている奴もいる。

私は、結果的に転職を重ね、現在、ラジオ番組も少しは創れる環境に戻って来たのだが、地方から東京に出て来てから25年。ラジオ畑のみで暮らしていた男が居た。私とは18歳くらいからの知り合いで、当時は北海道に住んでいた彼。いつしか川崎の、隣の町会で暮らしていた。

7年ほど過ごしたその街では、PCの調子が悪くなったと云えば呼び、樽生のサーバーを買ったと云えば呼び、miniDVのカメラを買った時には撮影に出かけ、朝まで編集し、上映会をするような仲だった。

伊豆の方にレンタカーを借りて出かけたりした時は、地元のコミュニティFMを聴きながらリクエストをし、最終的には局の位置を検索して、サテライトスタジオで喋っていたパーソナリティの人にあいさつしに行ったっけな。

彼はラジオがとにかく好きだった。正直オンエアモノの大きな番組を、現在やっていたという話は聞かないけれど、堅実な番組を創っていたと思う。そういう人だから。

ここ10年ほどは、私は実家の方へ引っ越しをし、彼の消息はうわさでしか聞かない程度であったが、3カ月前、コラムニストのえのきどいちろう氏からチケットが入ったので、ファイターズとアスレチックスとのプレシーズンゲームを誘われた。私と今でも仲良く野球観戦をしているナレーター氏の仲介もあってだが。

えのきどさんは私も大好きな文化放送で朝のラジオ番組をレギュラーでやっていたし、私の友人とも”その”話で盛り上がった記憶もある。

その中で「ファイターズ エキサイティングネットワーク」と云う、ライオンズナイターを制作している局で、極めて日ハム的なコーナーを作っていたことを記憶している。

紆余曲折あって、彼はラジオの仕事の傍ら、ネットやパソコン周りに詳しいので、えのきどさんのツイッターで”中の人”をやっていたらしい。

なので、えのきどさんから、ファイターズのチケットが回って来たとの事。

で、まぁ、数年ぶりにまともに喋ったので、最初は少し緊張はしたのだが、
「北海道に住む母親が、移転してから15年、すっかりファイターズのファンになっている」事。それに、「HBCとSTVのファイターズ中継はどっち派?」や、「プロ野球中継の裏送り事情」など、ラジオフリークならではの愉快なトークが繰り広げられまして、球場を後に。
神保町でカレーを食い別れました。

それから二カ月・・・

今月会う約束をしていたのですが、

彼は亡くなってしまいました。

実感はいまだに無いのですが、
46で逝かないでもと思いました。

独り暮らしで、家で突然身に起こる異変。

家族と共に生活している方も、相手が外出している時に何かが起これば
独り暮らしと なんら 変わらない危険はありますのでね。

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えのきどいちろうさんが、今回の件をコラムとして発表をし、彼を想ってくれています。

また、

彼の事を 喋ってくれたので お聴き頂いた人も いたのかも知れません。

40代も半ばを過ぎますと

四半世紀の仲間の色々なシーンに立ち会う事となるのですね。

個人的には、ラジオディレクターの彼の事を考えながら、

「手伝ってほしい」と云うオーダーには出来る限り沿いつつ

笑って楽しめる仕事を探求しながら、仕事と向き合って行こうと
改めて感じております。

さ、今日もこれから二案件、行ってきます。

2019年6月17日
げんちゃん 拝

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