オチのない話してもいいですか

※過去にピクシブファンボックスで書いた記事の再掲です

皆さんは何か話をした時に、

「で、オチは?」

と言われたことはないでしょうか。


私自身はあまり言われた記憶はないですが、

一時期知り合っていた人が何にでも

「どういうことすかそれ?!」と突っ込む人で、

ボケたつもりもないのによく言われましたが

これももしかしたら同じ意味合いだったのかもしれない。


ともかく、この日常会話にオチを求める空気はなんだろう、と私は思いました。

これをことさら否定するつもりじゃなく、

実際私も長々とオチのない話を聞かされるのは好きではありませんが、

相手に「オチは?」と求めるのも何か違う気がします。

プロの噺家とか、スピーチではないわけですから。


そもそも「オチ」とはなんなのかということですが、


落ち(おち)とは、笑い話など物語の結末のこと。多くの場合おかしみのある部分だが怪談などの結末も指すため一概には言えない。(wikipedia)


ということだそうで、

乱暴に言うとお話のハイライトであり、

話者が意図した感情(怖いとか面白いとか)を、

最も聞き手に覚えさせる部分と言えそうです。

かつ話の構成上それが結末になっている感じのやつのことでしょうか。


つまり「オチは?」という指摘は

「その話のどの部分をもって、私をどんな感情にしようとしたの?」

という意味と取れる訳です。

もっというと「何の感情もわかなかったのだが、

どういう意図でその話をしたのか」ということです。

こうなると漫画なんか描いてるとよく言われる話になってきますね。


漫画、とくに商業漫画ならばこれ、

「作者が意図した感情(怖いとか面白いとか)を、

確かに読み手に覚えさせる」ということ、

即ち「エンタメ」が大事なわけですから、

こう言われてしまうのも致し方ないのですが、

日常会話でこれを求めるのはやはり酷な気がします。


しかし逆の立場を取ると、

「なぜオチのない話をしてしまうのか」という疑問も立ち上がります。

なんの意味も意図もなく人間は会話しようとしないはずだからです。たぶん。

命題①「人間はなんの意図もなく話をしない」が真ならば、

「オチのない話」、即ち「聞き手に何の感情も沸かない話」が生まれる理由はなんでしょうか。


それはひとつに「技術や工夫の欠如」でしょう。


漫画の例だとよくわかりますが、

自分ではこりゃあおもしろいぞ〜と思って描いたのに、

結果意味のわからん漫画を描いてしまった場合、それは単純に「失敗」…。

技術や工夫が足らず、意図する所を表現しきれなかったということだと思います。

これと同じように、意図はあったが台本のない日常会話ゆえ

話す順番が悪かったり、無駄なことまで描写したり、逆に情報が足りなかったりで

意図を伝えきれなかったため、「オチ」をつけたかったけどオチなかった場合。

これはあるでしょう。


またひとつには、「そもそもオトす気がない」場合が考えられます。


先ほど「オチ」とは「エンタメ」であると書きましたが、

日常ではそもそもエンタメする気がなく話をする場合もあるでしょう。

注意したいのはこの場合も「意図」は存在するということです。

(命題①は真である)

この場合の「意図」もまたいろいろあるかと思いますが、

大きいのは「自分のために話す」という場合ではないでしょうか。

エンタメは他者のための、ある種サービスですから、そのために頑張ってオチを付けるわけなんですが、

最初から聴く人どうこうじゃなくて、自分が気持ちいいからとか、吐露したいからとかで話す場合です。

この場合オチを付ける必要がないので、当然オチはありませんよね。


なんだかこんな風に書くと、

「オチのない話をする奴は自分のためだけに人につまらん話を聴かせる身勝手な奴だ」と書いているように思われるかもしれませんが必ずしもそうではなく、

私が今回言いたいのは、人が会話をする時には「ホスト」と「ゲスト」という役割が存在するのかもしれないということです。


つまりオチのある、エンタメ性のある話をしている人はその時「ホスト」であり、

「ゲスト」である聴手を楽しませようとかそういう振る舞いがあり、

またオチのない、ただ何かを吐露するような話がされている時は聴手が「ホスト」であり、話を聞いてあげることで「ゲスト」たる話者にサービスする働きがある。

これは時々でも入れ替わるし、入り混じることもあるだろうし、

集団や個人によっても変わるでしょう。


例えば『聴手が「ホスト」で話者が「ゲスト」』の会話感覚を持った人達の集団、

(強いて名付けるなら)「自助会型会話集団」内であれば、皆好きなように自分のために話し、聞くときは傾聴するという形で、フェアに会話は流れることでしょう。

しかしこの集団で育った人と、逆の会話感を持つ集団である、『話者が「ホスト」で聴手が「ゲスト」』の「コメディアン型会話集団」(?)の人が出会った時、冒頭のセリフ、「で、オチは?」を言われてしまうことになるわけです。

また、ただ黙って聞いて欲しい、みたいなときに「コメディアン型」の人に話を聞かせた際にも、「で、オチは?」の洗礼を食らうかもしれません。


正しいかはわかりませんが、こういう認識でいると、

「で、オチは?」とだれかれ構わず求めるものではないなと思うことができ、

会話時の摩擦が軽減されるかもしれません。

時と場合に合わせて「ホスト」と「ゲスト」を

上手に使い分けられたらもっといいですね。


また日常で、この人はどっちの会話感覚を基本としているのだろう、とか、

いまこの会話ではどっちがホストなのだろうとか考えてみたら

また発見があるかもしれませんね。


なんだかわかりきったことをくどくど書いたような気もするし、

あるいは全くの的外れなことを書いているかもしれませんが、

最近こんなことを考えましたので書いてみました。

ちなみにこの文章は私が考えたことを表明したかったから書いたのですが、

オチはついているでしょうか?

↑(というオチをつけたけどほんとにオチているんだろうか)


ではまた。

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