慣習国際法の同定における「バクスター・パラドックス」はパラドックスか?


①はじめに:国際法学における「パラドックス」

「パラドックス」という言葉って,なんかロマンがありますよね。当然の前提と妥当な推論から生じる行き詰まり。こうした盤面に直面するたびに,ふと「おかしいな」と,隠しきれない笑顔でつぶやいてしまうものです。

そんなパラドックスが国際法学でも提唱されました。

②前提:慣習国際法とは何か

まずは「前提」からご説明いたします。

国際法の2つの形式

国際法とは,国際社会において,主に国と国との間で適用される規則のことです。国内社会で「規則」というと,まずは法律が思い浮かぶでしょう。しかし,国際社会には「世界政府」のようなものはありません。したがって,国内社会のように「立法」をすることもできません。
そのような国際社会では,主に2つの形式で規則が作られています。

第1:条約

第1は,条約です。これは国と国の契約のようなものです。国内社会で個人が契約書を交わすのと同じように,国の代表者が話し合って条約の内容を決定したのちに,文書の交換や署名,批准などの手続きにより同意を与えることで,それが拘束的な規則になります。当然ですが,条約は,それに拘束されることに同意した国しか拘束しません。したがって,2017年に「核兵器禁止条約」が作られて核兵器の開発,生産,貯蔵,使用などを包括的に禁止しましたが,これらの禁止に従わなければならないのは条約を批准した国のみであり,この条約への同意を示していないアメリカ,イギリス,フランス,ロシア,中国などは,そもそも条約に従う義務を負っていません。

第2:慣習国際法

第2は,慣習国際法です。こちらは,条約のように文書の形で提示されるものではなく,諸国の実行が積み重なった結果として「慣行」と呼べる域に達した際に,それは拘束的な法になるというものです。「話し合って整備した登山道が条約,長年同じ道を皆が歩いた結果できた登山道が慣習国際法」と説明されたりもします。
とはいえ国際社会においては,「外国の偉い人が来たらレッドカーペットを敷く」「国際会議ではアルファベット順で座る」というような,儀礼的・便宜的に従われているに過ぎない単なる慣例(「国際礼譲」といわれます)もあります。そのため,慣行があるだけでは足りず,それが法であるという主観を伴っていなければならない,というのが現在の通説的な見解です。判例でも,たとえば北海大陸棚事件において,「単に関連する行為が確立した慣行になっているだけではなく,その慣行がそれを要求する法規則の存在ゆえに義務的であるという信念の証拠となるような方法で,当該行為が行われていることが必要」といわれました。つまり慣習国際法とは,「法的信念の伴った国家慣行」を言います。
ここでの国家実行は,必ずしもすべての国の実行を要求しません。ICJのニカラグア事件で,ある規則が慣習として確立するために実行が当該規則と完全に厳格に合致している必要はなく,国家の行動が一般的に当該規則と整合的であり,不整合な行動が新たな規則の承認としてではなく一般的に当該規則の違反として扱われていれば足りると述べられました。
そして慣習国際法は,国際社会における一貫した慣行ですので,基本的にはすべての国を拘束することになります。(例外として,慣習国際法が形成される時点から一貫して異を唱えていた国はその慣習国際法に拘束されないという「一貫した反対国の法理」があるといわれています。)

③バクスター・パラドックス

このように,たとえ明文の条約として提示されておらずとも,それが法なのだという信念を伴った国家慣行が確立すれば,当該慣行は慣習国際法として法的拘束力を持つことになります。

さて,バクスターはこの慣習国際法がパラドックスに陥っていると主張しました。

その文書への当事国が増えるほど,非当事国による一貫した行動パターンを立証するのが次第に難しくなっていく,と見るのは当然のことである。慣習国際法を形成するプロセスへの参加者の数があまりに少ないために,その実行がごく僅かになる,あるいは全くなくなることになるかもしれない。したがって,条約の当事国の数が増加すればするほど,条約の外部における慣習国際法の地位を立証することが困難になる,という逆説が生じることになる。

R. Baxter, R., “Treaties and Custom (Volume 129)”, in: Collected Courses of the Hague Academy of International Law (1970), p. 64.

核兵器禁止条約を例に挙げましょう。この条約は,2017年7月7日,122の賛成票を得て採択されると,2020年には50か国の批准を得て,その90日後にあたる2021年1月に発効しました。
仮に核兵器禁止条約の批准国がどんどん増えて,核兵器国を除くほぼすべての国がこの条約の締約国となったとします。すると,核兵器の生産,保持,使用を禁止する慣習国際法は成立するでしょうか。
バクスターの説明に従うと,核兵器の生産,保持,使用などを禁止する慣習法が成立しているかどうかを判断するために,核兵器禁止条約の締約国の実行はそれほど重要ではないことになります。なぜなら,条約締約国が核兵器の生産・保持・使用をしないのは,あくまで自国が同意した条約上の義務に従っているからであり,慣習国際法の証拠とは考え難くなるからです。国際法委員会も,北海大陸棚事件のパラ76を引用しつつ,「条約上の義務を条約上の義務として遵守しようと努めることは・・慣習国際法を同定する目的で法として認めたのではない。すなわち,そのような意図で行われた慣行それ自体は,慣習国際法規則の存在を推定させるものではない」と述べています(慣習国際法の同定に関する結論草案,結論9の注釈(4))。
むしろ重要なのは,核兵器禁止条約に入っていない国の慣行および法的信念,ということになります。しかし今,核兵器を持たない国はほとんど条約を批准してしまい,残されているのはほとんど核兵器国のみという状況です。するとどうでしょう。核兵器禁止条約の締約国が増えるほど,条約と同内容の慣習国際法が成立しづらい,という状況が生じます。

直観的には,ある規範を支持する国が多ければ多いほど慣習国際法になりやすそうである。だが,現実にはむしろ逆であり,むしろ慣習法であることの証明が困難になる。これが,「バクスター・パラドックス」です[1]。


[1] なお,類似の問題は,実際の国際裁判でも発生しています。たとえば1969年の北海大陸棚事件において,大陸棚の境界をどのように画定するかが問題になりました。
1958年の大陸棚条約6条は,相対する海岸を有する国の大陸棚の境界について合意が得られないときには,原則として等距離原則により決定することを定めていました。ノルウェーとデンマークは,これが慣習法であるということを示すために様々な慣行を証拠として提出しました。それに対してICJは,次のように言います。

「まず,関係国の半数以上が,一方的な行動であれ共同行動であれ,ジュネーヴ条約の締約国であったか,またはすぐに締約国になったのであり,したがってそれら諸国に関する限りは,同条約を適用するものとして実際にもしくは潜在的に行動していたと推察される。これら諸国の行動からは,等距離原則を支持する国際慣習法規則が存在するという推定を正統に導き出すことはできなかった。」

北海大陸棚事件,para. 126.

④バクスター・パラドックスへの応答

さて,このパラドックスに対して,どのように対処するべきでしょうか。

バクスター・パラドックスの回避

まず,パラドックスを極力回避するという方向が考えられます。たとえば,慣習法を形成するために,あえて多数国間条約を避けるという手法です。国際法の法典化を任務とする国際法委員会は,2001年に国家責任条文を完成させましたが,これは条約となることはありませんでした。中には未だ慣習法とはなっていない漸進的発達の要素を含む条文もあったことが指摘されています。例えば,erga omnes・erga omnes partesな義務に基づく責任追及を定める48条です。しかし,ICJは近年これを容認する判決を複数出しており,「ステルスによる慣習国際法かもしれない」と評価されています(Crawford 2013, p. 108)。

バクスター・パラドックスの解決

またクロフォードは,さらに進んで,バクスター・パラドックスの解決を目指しました。

クロフォードは,条約への参加から法的信念を推定し,条約への広範な参加があれば慣習国際法を認定することができるかもしれないと言います。エリトリア・エチオピア請求権委員会は,1949年のジュネーヴ諸条約と第1追加議定書について,広範な参加を根拠に慣習法規則を認定しました(EECC, Prisoners of War: Ethiopia’s Claim 4, Partial Award (2003) 135 ILR 263, para 31)。
当然,では条約に加盟しておらず条約上の義務を認めていない国の扱いはどうなるのかという疑問が生じるでしょう。ただ,それら条約に参加していないごくわずかな国は,たとえば,先に触れた「一貫した反対国」として扱うこともできます。

ただし,条約が普遍的な参加を得ているだけでは,その条約の内容が慣習国際法として成立しているとは言えません。条約批准国であっても,外交文書や政府声明などの資料を用いて,それが慣習国際法の一部であると考えている根拠を示す必要があるといいます。ただ,このことはむしろ,慣習国際法の同定に際しては当然ともいえるでしょう。

バクスター・パラドックスはパラドックスではない?

条約は,条約締結時点の見解のみを反映しているに過ぎません。しかし,その後時間の経過とともに,慣習が条約の内容を「形成し,そして修正すらする」こともあるのです。たとえば,国連憲章51条と,慣習国際法上の自衛権が共存しうることが,これを示唆しています。ニカラグア事件でも言われたように,条約があっても慣習国際法の成立は妨げられない(ニカラグア事件,パラ175-177)。ここから,バクスター・パラドックスがパラドックスではないことが示されるというのです。

おわりに

このように,バクスター・パラドックスは,理論的には直観に反するように見えることから,国際法学徒に絶望ときらめきを与えてくれます。しかし,実際に現実の問題に当てはめて考えると,案外,条約と慣習国際法の性格を妥当に示しているものなのかもしれません。

参考文献

  • Baxter, R., “Treaties and Custom (Volume 129)”, in: Collected Courses of the Hague Academy of International Law (1970).

  • Crawford, James, “Chance, Order, Change: The Course Of International Law General Course On Public International Law (Volume 365)”, in: Collected Courses of the Hague Academy of International Law (2013).

  • Thirlway, Hugh. ‘Professor Baxter’s Legacy: Still Paradoxical?’ 6:3 ESIL Reflection (2017).


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