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【リライト版】小説『魔女の遺伝子』第三話「脱走」

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 しばらくしてドアが開いた。そこに現れたのは長身で髪の短い金髪の美青年だった。服装はいたって普通。ジーンズに白いTシャツ、その上に黒いジャケットを羽織っていた。靴もストライプの入った普通のスニーカーで、研究施設と思われるこの場所に似つかわしくないいでたちだった。

「エリザベスさん、紹介するわ。彼がクリスよ」
 ヴァネッサは少し口角を上げてそう言った。
 この男がクリス。リサの想像よりずっと普通で、雰囲気もヴァネッサに比べてずっとまともだった。しかしどれだけまともに見えても、この男はヴァネッサの仲間。状況は何も変わっていない。むしろ悪化したといってもいい。ただでさえ逃げられる保証がどこにもないのに増援を呼ばれたのだ。

 クリスはヴァネッサの方を見た。
「ヴァネッサ、あとは俺がなんとかする。お前は指令室に戻ってくれ」
 ヴァネッサは不思議そうな顔をした。
「なんで? ナタリー様にお会いできるかもしれないのに」
「妙な期待はするな。今すぐナターシャの人格を取り戻せるわけじゃない。お前だってわかってるだろう? それに説得するならお前はいないほうがいい」

 クリスが遠回しに邪魔者扱いするので、彼女はあからさまに不機嫌になった。
「どういう意味? 私がいたら都合悪いことでもあるわけ?」
 ヴァネッサはご立腹の様子だった。
「二人きりでないとできない話もあるってだけだ。俺を信用しろ」
「……ふん。いいわ。私もあなたに比べればまだ若いですから、ここは年長者の命令に従うとします。ええ、従いますとも」
 ヴァネッサは嫌味ったらしい言い回しで言葉を返すと、不服そうな顔でドアの前まで歩いた。そして振り返ってクリスを睨みつけた。
「でも、いい? ここでの立場は私が上よ。それだけは忘れるんじゃあないわよ」
 彼女は捨て台詞を吐いて出て行ってしまった。

(年長者?)
 リサは疑問に思った。クリスは自分と同年代に見えるし、ヴァネッサは三十代半ばくらいに見える。クリスが年長者とはいったいどういうことなのか。しかしそれ以上に気になったのは、彼らの関係だ。
 二人の仲は決して良好とは言えなそうだし、クリスにはヴァネッサのような邪念は感じられない。容貌だけでなく立ち居振る舞いも、とても悪人には見えなかった。本当に仲間なのか怪しいと感じるほど、クリスは真っ当な人物に見えた。

 リサの頭が疑問で埋め尽くされる中、クリスはゆっくりとリサに近づいた。彼女は警戒したが、逃げ場がないためただ怯えるしかなかった。
 彼は少しかがんでリサの耳元に顔を近づけた。
「逃げるぞ」
「え?」
 クリスの口から出た言葉は意外なものだった。確かに逃げると言った。彼はヴァネッサの仲間のはず。リサの中にあるナターシャの人格を蘇らせ、それでもって社会に復讐しようと企んでいる、いわばテロ集団の人間。それがせっかく捕らえたリサを逃がそうとしている。

「ほら、お前が履いていた靴だ」
 クリスはリサが誘拐されたときに履いていた靴を隠し持っていた。彼はそれを床に置いた。
「服と鞄はさすがに持ってこれなかった。すまないがこれだけで我慢してくれ」
 リサは何が何やらさっぱりわからなかった。対してクリスは想定済みといった様子。

「なぜ私を助けようとするのって顔だな。安心しろ。まだ信用できないと思うが俺は君の味方だ」
 彼女はわけがわからず、口を開けたまま何も言えなかった。クリスはかまわず続けた。
「ここから指令室までだいたい三分ってところだ。もうじきヴァネッサが到着する。……この部屋の監視カメラは君の後方の天井にある。常駐している監視員もまだ状況を察知していないはずだ。あ、後は見るなよ」
「え? え?」

 クリスが言うにはまだバレていないらしい。そして猶予はもう残されていない。
「家に帰りたくないのか? 能力が覚醒していない今の君では、どうあがいてもここから出られないぞ。俺について来るんだ」
「は、はい」
 焦りからか、直感からか、リサはクリスの申し出に応じた。彼女はすぐにベッドから降り、靴を履いた。

「よし、行くぞ。この部屋を出たら右方向に真っすぐだ。そのあとは俺の後について走れ。いいな?」
「はい」
 今はこの男を信じるしかない。彼の言う通り、リサには逃げる手立てなんてないのだから。それになんとなく、この男は敵じゃない気がしていた。言葉を交わしてもなお、社会に対する復讐を考えるような憎悪は感じられなかったからだ。
 クリスが扉の脇にある端末に指をかざずと、プシュっという音とともに扉が開いた。彼は軽く振り返り、右手で進行方向を指さした。リサが頷くと彼は頷き返し、その方向へと走り出した。


 そのころヴァネッサは指令室近くまで来ていた。そしてドアまであと十歩ほどのところで、緊急事態を知らせるアラート音がけたたましく鳴り響いた。
「なに!?」
 突然の出来事に彼女は驚き、辺りを見回した。そして急いで指令室の前まで走り、ドアを開けた。

「何があったの!?」
 ヴァネッサが大声で問いただすと、監視用モニターの前に座っている数名の監視員のうち、一人が振り返って声を上げた。
「所長! 緊急事態です! クリス様がナタリー様の依り代を連れてお逃げになりました!」
「なんですって!?」
 彼女はモニターに駆け寄り、そのうち一枚を注視した。そこには確かにクリスとリサが走る姿が映し出されていた。

「どういうこと!? なんでクリスがあの娘を連れて逃げてるの!?」
 ヴァネッサは激しく取り乱した。彼女はすぐさま近くのマイクを掴んだ。
「緊急事態発生!! クリストファー・ブライアント、エリザベス・アヴェリー両名が脱走したわ!! 各員、担当ゲートを封鎖し、二人の脱走を阻止しなさい!!」
 号令は館内の警備員に伝えられた。ヴァネッサの目的は二人を拘束すること。つまり脱走を阻止すれば勝利となる。それをふまえ、彼女は施設内の警備を各ゲート付近に集中させた。

「追跡は私が直々にするわ! 今から二人の位置を逐一伝えなさい! いいわね!?」
「「承知しました!」」
 ヴァネッサは通信の受信機を右耳に取り付け、指令室を出た。
「クリス。この私をコケにするなんて、許せない。ナタリー様の左手を保存したあなたでも、私の悲願を邪魔するのだけは絶対に許さないわ!」


 ヴァネッサが指令室に着いたのと同じとき。クリスと共に逃げていたリサは館内に鳴り響くアラート音に驚き、立ち止まってしまった。
「え!? なに!?」
 クリスはリサが立ち止まったのに気付き、すぐに振り返った。
「何をしてるんだ! 走れ!」
「は、はい!」
 彼に発破をかけられ、リサは再び走り出した。

「安心しろ!」
 クリスはリサの心を察したかのように言った。
「え!?」
「すぐに大勢の追手がやって来ることはない! 奴らの目的は君をここから逃がさないことだ! まずすべてのゲートを封鎖して脱出を阻止するはず!」
「でも、それじゃあ結局出られない!」
「大丈夫だ! ゲートは俺が開ける!」
 クリスには封鎖されたゲートを開ける手立てがあるようだった。確かに彼は表向きヴァネッサたちの仲間を装っていたのだから、何らかの認証システムでゲートを開けられるのかもしれない。さっきの部屋もそうして出られた。

 しかし施設側はすでにクリスが裏切ったことを知っているはず。認証を外すなりなんなり、対策をとっている可能性もある。リサはどこまで彼を信じてよいのか測りかねていた。
「ねぇ!」
「なんだ!?」
「ゲートを、開けるって、どうやって!?」
 彼女は息も絶え絶えになりながら、声を張ってクリスに尋ねた。
「俺の能力でゲート脇の端末を破壊して開ける! 緊急時の脱出用に、特定の箇所を破壊すれば開くようになってるんだ!」
 クリスもヴァネッサと同じ能力者だった。よく考えてみれば、彼はヴァネッサと対等に喋っていたのだから、彼女と同等の能力を持っていても不思議ではない。

 クリスは走りながら続けた。
「問題はヴァネッサだ! ここにいる能力者で、俺と君を同時に相手にできるのはあいつくらいだ! おそらく今、あいつは単独で俺たちを追ってきている! 追い付かれるのも時間の問題だ!」
「そんな!」
 あの恐ろしい女が追ってきている。リサはまた恐怖で寒気がした。それ以前に、ここまで走りっぱなしで彼女の体力はもう限界に近かった。

「待って!」
 リサはついに立ち止まってしまった。膝に手をついて下を向き、肩で息をしながら泣きべそをかいた。クリスも立ち止まり、振り返って彼女に駆け寄った。
「大丈夫か?」
「もう、無理だよ。走れない」
 恐ろしくて、逃げたくて仕方がないのに、息が上がってこれ以上走れる気がしない。彼女はもうおしまいだと思った。クリスがヴァネッサと戦ってくれるかもしれない。だが彼一人で何ができるというのか。結局つかまって、ナターシャの人格を蘇らされ、最終的に身体を乗っ取られるに違いない。

「うっ、うっ……」
 怖くて、悲しくて、リサは嗚咽した。こんな形で人生が終わるなんて、彼女は思いもしなかった。
「クリスー!!」
 すると後方から聞き覚えのある女性の声が聞こえてきた。ヴァネッサだ。五十メートル後方、ついにヴァネッサが追いついた。
「もうだめ。逃げられない」
 リサは横目でヴァネッサの姿を視認すると、絶望してその場にうずくまってしまった。もう助かる道はない。そう思っていた。


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