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名もなき罪悪感の存在

☺️
びっくりするくらい
調子が悪くなった

原因はひとつじゃ無い!
原因を突きとめたいわけではない!
原因はひとつじゃ無い!!! はず。
わたしがわたしを優先せず、何か妙な罪悪感を見過ごせず、どっぷり感じたからだ。(これ。感じなくてもいいのにまだ手放せていない感覚。)
好きなことを追及してやり続けてることへの誇りは片方で、ものすごい持ってるはずなのに。

お金のこと、時間のこと、作品のこと、知名度のこと、そんな、外側からの物差しばかり見えてくる瞬間があり、やりたいことを思いっきりやれてることへのつかみどころのない罪悪感。
(こんなに遊んでいいの?と思うやつ。)
(や、むしろ思いっきりオープンで遊ばなきゃダメなのに)

なんか、こんな時に、立て続けに魅せられるんだよなー。
「すごく有能だから忙しくてすり減ってるお医者さんの受付の人」とか、「優しさから他人のために尽くして達成感を持ってる素敵な包容力の人」とか。『弱気が作動してるなう』の、わたしが、そに方々を目の当たりに連続で何人も見る(しかも、どうでもいい人ではなく過去に大事だった人たちのそーゆー部分を見せられる)と、悪いことはないのに堕ちます。→わたしの生きた形跡はどこにあって、達成感とは何なのかと、ほんと、一回全てを見失う。わたしってこんなでいいのだろうかという感覚が、ザザザーっと闇に広がり支配される。(いいのに。わたしはそれじゃなきゃダメなのに。)だけど、時々他人と比べてしまい逃れられなくなるくらい思うやつ。
そして、その感情が湧くと、すぐさま心の隙にどんどん来る。沢山の罪悪感→ニューヨークばかり行ってすいませんみたいな気持ちとか、お金をたくさん使ってることとか。あと、自分が自由にできる時間を持ってることとか。守る家族がいないこととか。地域に貢献していないこととか。感受性が豊かなこととか。人に好かれやすいこと、恵まれてることとか、自分の築いたたくさんの信頼でさえ闇の中に消えちゃう。泣きそうなくらい、そーゆーことに対しての罪悪感が来る。そして、自分で掴んでる栄光や実績のようなものまで、小さく見せようとしてしまい幻になる。それが、地味に地味に自分自身を苦しめるのだ。(なんなの?これ、癖なの?)
帰国して、わたしに会いたいって言ってくれる人に会えてないことへの申し訳なさとか。感じなくてもいい、ちょっとしたことが、払拭できなくて積もる。あとは、愛されてることへの罪悪感もある。

なぜそう思うかも、わからない。
わたしはこれを言語化できたり絵に描けるだけ、まだ救いがある。

たとえば、漠然と褒められすぎると、それに対して、一つずつ受け止めるから疲れる。ほんと、アンチな言葉や嫌われてる方の感情の方が、軽く受け入れてから捨てられる。褒められたり好かれたりすると、平常のままでいることが難しく、逃げにくいし受け止めにくい。でも、褒められないとそれはそれでショックを受ける。
表現者でありたくて、それをしてるのに、感想をもらわなくてももらっても結局全部が全力すぎて、疲れ果ててしまうのだ。(だからってやめることはないというのも長い人生の中でわかってきたこと)
で、力を使いすぎたり気を使いすぎて、自分を後回しにして、警告のように頭痛が来た。

その連続で、ひどい頭痛まできた
そしてこれは
5年くらい前はいつも
自分がこの体調になっていたが
気づいてなかったやつ
熱はないしと、
そのままでも、無意識に我慢して
スケジュールが空いてれば
スケジュールがあれば、
それどおりに
動いていたやつ
..........
気づかせに来たね。頭痛さん!
こんなふうに自分の感情や感覚を
後回しにしてはダメだと!
そして、何もないような生産してないような日々が本当はすごく大切だったんだと気づいた。..........
お人好しで
予定が埋まることを
もう辞めていいよ、
ともちゃん!

(つまり、他人軸)

..........
どうしてこんなにやりたいようにやってるのに罪悪感とか出てくるのかな。お金なのか実績なのか、なんなのか。でも、何かに遠慮してる。遠慮ってのは縁を遠くするもの!むしろ、性格悪い自分も丸出しでいく方がわたしなのである。そして、わたしがわたしの真ん中を信じたり可愛がったりすることがとても癒しになるのである。
#他人軸ではなく
#自分軸

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