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日本初の女性化学者 黒田チカ

3月8日は国際女性デーです。
今回は、女性として日本で初めて化学者となった黒田チカさんをご紹介します。帝国大学に入学した初の女性でもあります。

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黒田チカ(https://www.miyajima-soy.co.jp/archives/column/kyoka29)

1884年、佐賀県に三女として生まれた黒田チカ。
彼女の父親は「これからの時代、女子にも学問が必要だ」という先進的な考えの持ち主でした。
そのため、男女関係なく子供たちに学ぶ機会を与え、大学入学を勧めました。
黒田チカの父は佐賀藩士だったため、子供たちの教育にお金をかけることが出来たんです。

1901年、佐賀県師範学校(現在の佐賀大学)女子部を卒業し、一年間小学校教員を務めます(学校の義務だった)。
そして1902年、女子高等師範学校(お茶の水女子大学の前身)の理科に入学し、化学を専攻します。
1906年に師範学校を卒業、1907年には師範学校の研究科に入学します。
入学後、平田敏雄教授の指導を受けます。実験技術などの指導を受ける中、化学の専門書も勧められます。そこで、黒田チカは化学のあらゆる分野(有機化学、無機化学、分析化学など)を英書で独習したそうです。
2年後、研究科を終了し、そのまま師範学校の助教授に就任します(このとき25歳でした)。
この助教授時代に長井長義という人に出会います。

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長井長義(Wikipedia)

長井は薬学者で、後に日本の近代薬学の開祖と呼ばれるようになります(日本薬学会初代会頭)。
医学が目的でドイツ(ベルリン大学)に留学した長井は、ヴィルヘルム・ホフマンに師事し、化学に没頭します。ヴィルヘルム・ホフマンは、様々な法則や反応に名を残したドイツの化学者です(ホフマン則、ホフマン転位など)。
長井はそこで、大学に多くの女性が在籍し、女性の助手もいることに驚きます。さらに、助手を務める女性が危険度の高い化学実験を行っているのを見て衝撃を受けます。
日本では考えられないことでした。
日本にも女子教育が必要だと考え、行動を起こします。

ドイツ人のテレーゼ・シューマッハと結婚した長井は、夫婦で女子教育に力を入れ、日本女子大学校(現 日本女子大学)を創設します。
この日本女子大学校の一回生、丹下梅子(日本初の女性農学博士)は、後に黒田チカ牧田 らく(日本初の女性理学士、数学者)と共に東北帝国大学に合格し、女性初の帝大生になります。

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丹下梅子(1948年、Wikipedia)

長井は黒田チカに厳しく指導し、実験する際の心構えなども説いたそうです。女性にも等しく教育する必要があると考えていた長井は、女性だからと言って甘く接することはなかったそうです。
後に黒田はこの頃のことを、以下のように回想しています。

「周到な注意を要すべき、尊き経験を得さしめんがため、先生がわざわざ真剣な態度にて厳しき実験を課せられたかと思うと、しみじみ印象し、忘れ難い有り難い思い出である」
*宮島醤油HPより(https://www.miyajima-soy.co.jp/archives/column/kyoka29)

この頃、帝国大学は慣例で女子の入学を認めていませんでした。
しかし、1913年(大正二年)東北帝国大学(現 東北大学)が初めて女子の入学を認めます
長井を初めとした周囲の強い勧めもあり、黒田チカは東北帝国大学を受験し、見事合格します
前述した丹下梅子、牧田 らくと合わせ、三人の女性初の帝大生誕生です。
そして、合格発表の行われた8月21日は、後に女子大生の日となりました。
黒田の受けた化学科は特に難関とされ、合格したのは僅か11人でした。
そして、そのうちの2人が黒田チカと丹下梅子でした。
*牧田らくは数学科
東北大学理学部は、日本で最初に女性を受け入れた学部となります。

大学三年のとき、専攻を有機化学に決めた黒田は、その後の研究人生を決定づける人物に出会います。
当時、有機化学の研究室を運営していたのは真島利行(まじま としゆき/りこう)でした。
真島利行は、漆の主成分、ウルシオールの構造を明らかにし、合成した化学者です。

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真島利行(Wikipedia)

黒田が研究室に入った頃、ウルシオールに関する研究を完遂した直後で、研究室は活気に満ちていたそうです。
真島から研究テーマの希望を聞かれた黒田は「天然色素の研究がしたい」と答えます。
そこで、真島は紫根(しこん=ムラサキの根)の研究を勧めました。
紫根の色素につきて」というテーマ名でした。

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ムラサキ(Wikipedia)

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ムラサキの根=紫根(http://www.pharmacrea.com/service/shikonin.html)

昔から紫色の染料は格式高い色として重宝されていました。
しかし、紫根の色素は熱に弱く、結晶化し難い物質でした。
そのため、純粋な結晶を単離することが出来ていませんでした。
また、当時は物質の構造を決定する分析装置がありませんでした(現在は、X線構造解析装置、核磁気共鳴装置、赤外分光装置、質量分析装置を主に使い、構造を調べます)。
色素を様々な試薬と反応させ、既に構造の分かっている物質と比較すると言う、とても地道で大変な作業と考察を繰り返したそうです。

黒田の挑戦した紫根の色素は、以下のシコニンという物質でした。

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シコニン(http://www.pharmacrea.com/service/shikonin.html)

黒田は東北帝国大学卒業後、同大学で副手として研究を続け、遂にシコニンの構造を明らかにします(図には記していませんが、光学異性体です)。

構造の解明は、それまで難しかった紫色素の量産に大きく貢献します。

この業績によって、東京女子高等師範学校(現 お茶の水女子大学)に招かれ、日本初の女性教授となります(1918年)。
また、東京化学会(現 日本化学会)から講演を依頼され、女性理学士として初の講演も行います。
ただ、マスコミが大騒ぎし、専門家以外の人も大勢つめかけて大変だったそうです。そのため、黒田は恩師の長井からの講演依頼は断っています(^^;)

1921年(大正10年)、文部省の在外研究員としてオックスフォードに留学します。
有機化学のパーキン教授の元でフタロン酸誘導体の合成に関する研究を行い、二年後、帰国します。

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オックスフォード時代の黒田チカ(https://www.miyajima-soy.co.jp/archives/column/kyoka30)

ところが、帰国した1923年(大正12年)、関東大震災が起きます。
このとき、黒田は佐賀の実家に帰省していました。
震災で東京女子師範学校は瓦礫と化します。

東京駒込に設立された理化学研究所(以下、理研)は無事だったため、理研の真島研究室の隅で研究を始めることにします。再び、真島利行の研究室で研究することになったんですね。
ここで黒田は「紅花の色素=カーサミンの構造研究」にとりかかります。
紅花(べにばな)はキク科の植物で、古くから赤い染料として使われてきました。
しかし、紫根と同じで、結晶化の難しい物質でした。多くの研究者がその構造解明に苦戦し、諦めました。
黒田は学校と理研を行き来しながら研究を続けたそうです。

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理化学研究所の黒田チカ:1924年(https://www.sci.ocha.ac.jp/archive/women/women-4.html)

そして、1929年(昭和4年)、ついに紅花の色素であるカーサミンの構造を解明します。

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カーサミン(https://www.miyajima-soy.co.jp/archives/column/kyoka30)
*Gはグルコース

黒田は乾燥紅を希塩酸で処理した後、精製を繰り返すことで赤色の針状結晶を得ました。そして、その結晶をベニバナの学名(Carthamus tinctorius L.)からカーサミン(Carthamin)と命名しました。

この研究成果により、東北帝国大学から理学博士の学位を受けます
45歳でした。

その後も、様々な天然色素の研究を行います。
つゆ草の青花、黒豆やナスの色素など、身近な色素の研究を行っています。それらの研究から見つかった色素にアオバニン、クロマミン、ナスニンと命名し、アントシアニン類であることをつきとめています。

昭和18年、自由学園の生徒から、玉ねぎの皮で染物をすると薄茶色になるのは何故かという質問を受けます。
そこで調べてみると、玉ねぎの外皮にはケルセチンという物質が1%程度含まれ、それが黄色の染料になることが判明します。
さらに、薬学雑誌などから、血圧降下剤として使えるのではないかと考え、玉ねぎの外皮を大量に入手し、なんと100gのケルセチン結晶を作ります。
そこから錠剤を作り、臨床試験を行い、最終的には高血圧治療薬「ケルチンC」として販売されました(1955年、昭和30年=このとき71歳でした)。
全くの基礎から製品化にこぎつけたのは驚きです。
とてつもない苦労があったことは想像に難くありません。

黒田チカは 1968年11月8日、福岡市で84歳の生涯を閉じます。
温和かつ寛容な人で、人から不快を示されたことが無かったそうです。
人の意見を受け入れ、黙々と研究と教育に専念する、多くの人から親しまれた研究者。
人としても見習うことの多い方だったことが窺えます。

日本で女性が学問を納め、職業とする道を切り拓いた人物。
化学においても数多くの謎を解明し、道を切り拓いた人だと思います。
日本の化学の黎明期を支え、発展させた功労者の一人です。

黒田チカの天然色素研究関連資料は、日本化学会によって化学遺産 第019号に選定されています。

〇参考文献
・化学と工業 Vol.66-7 p.541-543(2013)
・お茶の水女子大学HP:「黒田 チカ」- 日本の化学の曙に輝いた初の女性化学者-:https://www.sci.ocha.ac.jp/archive/women/women-4.html
・宮島醤油HP(https://www.miyajima-soy.co.jp/archives/column/kyoka29)

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