大森三彦とその妹たち(宮本百合子の周辺)     金原甫

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以下の文章は単なる読み物であり、文芸評論などではない。

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宮本百合子の『杉垣』という短編小説(戦後に『風知草』に収録)が、高杉一郎夫妻の戦時下の生活をモデルにしたものだということは、一部で知られている(『杉垣』初出は1939年11月号の『中央公論』、単行本に収録されたのは1947年文藝春秋新社)。
そこの仔細は、高杉一郎の『征きて還りし兵の記憶』(岩波書店・1996年)の宮本百合子についての項や同著者『ザメンホフの家族たち』(田畑書店・1981年)所収の(返歌的)創作「冬を越す宮本百合子」や同書収録の「目白時代の宮本百合子」などに詳しい。
以下、『杉垣』に触れる前に、高杉一郎・小川五郎追想』(2009年・私家版)の年譜を参考にして、高杉一郎の軌跡を簡単に辿ってみる(高杉一郎の本名は小川五郎)。必要があるためお許し願いたい。
高杉一郎はそのロシア捕囚記『極光のかげに』(目黒書店・1951年)以降、ソ連の「スターリン体制」を告発した文筆家として著名だが、もともとは高等師範学校出(1930年3月)の教育者志望の人であり、新設の東京文理大学(東京教育大や筑波大学の前身)の教育学科に入学した(1930年4月)。しかし(欧州視察の帰りにソ連によった)山下徳治の新興教育運動に参加したことを咎められ、文理大から放校されてしまい(1932年3月あたりらしい)、改造社の編集者となる(1933年4月)。高杉一郎が文理大の英文科に入学し直すのは1940年のことであり、改造社の編集者をしながらのことだ(卒業は1944年3月)。改造社の文芸雑誌『文藝』の編集主任になるのが1936年4月とある。
改造社の解散(1944年7月)を受けて応召、満洲国ハルビンの部隊に所属し、日ソ戦争で敗北、捕虜となり、1949年9月に帰国するまでタイシェットやブラーツクのラーゲルで過酷な体験をする。
高杉一郎は1908年伊豆生まれであるが、帰国後、新制静岡大学の教育学部で英語教員として働くことになり、静岡に移住(帰郷)する(1950年9月)。以後、1972年3月に定年退職するまで静岡大学を勤め上げ、その後和光大学に転勤するために東京に戻るまで、二十数年間は彼ら夫妻・一家は静岡在住だったことは、高杉一郎に関する基礎知識として持っておきたい。

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