2019年11月24日に捧ぐ

エドガーは、ひとり夜の庭を歩いていた。

一面、青が支配する静寂の世界だった。背の高いバラの茂みが、幾層にもわたって整然と庭園の奥へと連なっていた。どの木もこぼれんばかりの花をつけ、今を盛りと匂い立っている。色はわからない。宵闇にほの白く浮かび上がるそれらは、鬼火のように、オパルセントガラスのような鈍く複雑な光を湛えていた。
針のような月が西の空に低くかかっていた。

歩を進めるごとに、湿気を孕んだ草の感触が足を包む。丈の高い下草の間にクローバーにナズナ、タンポポが咲き乱れ、さらにその間から控えめに顔をのぞかせる、紫の小さなスミレの花。
──なんだ。ここは。季節が入り交じっているじゃないか。

いつしか霧が出てきていた。草花たちは葉に花に無数の小さな露を頂き、辺りはバラの芳香と相俟って生命の濃厚な気配に満ち満ちていた。
こんなふうに植物の命を全身で受け止める感覚は久しぶりで、エドガーは不思議な昂揚を覚えた。

──ここは…どこだろう。かつて来たことがあっただろうか。
月ももはや霧の向こうに閉ざされ、エドガーはただ庭を渡る微かな風の音に耳を傾けた。

不意に、霧の向こうに、背の高い人影が音もなく佇むのに気がついた。

思わずはっと顔を上げると、目の前のそのひとと目が合った。
色白の輪郭。それをふちどる短い金色の髪が、夜風にわずかにそよいでいた。華奢な体つきだが、その無駄のないしなやかさはどことなく野生の獣を思わせた。
こちらを正面からとらえた、栗色の大きな瞳の中に、一瞬、火花のようなものが見えた気がした。

低くささやくような声が聞こえた──「エドガー」

その途端、なぜだか温かく懐かしいものが、堰を切って胸に流れ込んでくるのが分かった。
相手の顔に親しげな笑みが広がった。
「ここでなら、きっと会えると思ってた」──温かく落ち着いた声だった。

──何なのだろう、この切なさ、懐かしさ、胸を衝くようなうずきは。

それにしても彼女は、何と清らかな、澄み切った存在感を湛えていることか。まるでこの世のものではないかのように。
もっとも、同族ではないことは一目相見えたときからわかっていた。彼女の身体は隅々まで、まるで翼を備えているかのように、躍動する生命の血潮に満ちていた。

──それに、とエドガーは思った。この人はまた、音楽をもその身にまとっている。
古今東西、さまざまな地、さまざまな文化の音楽が、彼女の中で瑞々しく循環し、律動し、響きあっていた。
──なんというひとなのだろう。いったい、彼女は誰なのだろう。

「ずっとお礼を言いたかったの。あなたの人生の一部を生きられたこと。
ほんの束の間、あなたの一部になれたことに。」

その瞬間、脳裏に雷のように、無数の記憶が蘇ってきた。
赤ん坊だった妹メリーベルの泣き声。初めてシーラに合った時の切なくもどかしい気持ち。
人ならざるものに変えられ、迎えた最初の晩のこと。身体を突き上げるような渇きに負け、ひとりの少女を手にかけてしまったこと。
メリーベル、男爵やシーラの“一家”で暮らした森の家のこと。四人で駆け抜けた数え切れないほどの時間。
最愛の妹、そして家族を失った忘れがたき日。一緒に行こうと誘った時の、アランの悲しげな、揺れる瞳──。

思わず胸がつかえ、叫び出しそうになりながら、エドガーは、目の前の相手が自分と全く同じヴィジョンを共有していることを確信した。それはあまりに奇妙な感覚だったが、不思議と驚きはなかった。

彼女はふっと庭園を仰ぎ見た。
「ずっとこの庭が私の居場所だった。香り高い花々が咲き誇る、この美しい庭が…。
エドガー、私はここでね、時代も国も違うたくさんの人に出会って、その人生の一部を生きてきたんだよ」

エドガーにもその光景が見えた。ある時はイギリスやフランスの貴族、またある時は砂漠の国で生を渇望する青年。はるか東の果ての国で武人や海賊として生きる彼女の姿も浮かんだ。

「──そして、僕とも出会ったってわけだ」
彼女はいたずらっぽく笑った。

「ここで、どれほどの人の人生を生き、どれほどの人から愛をもらったか──。
でも…、それも今日で終わり。もう新しい世界に、旅に出なければ」
彼女の目に一瞬、不安と希望がない交ぜになったような、複雑な色が浮かんだ。

「怖い?」
「そうだね、少し。 でも大丈夫。皆が、そしてあなたが、力をくれたから。」

宵の青の軛から解放された庭園は、白銀色の光の中、本来の色を取り戻そうとしていた。まもなく夜が明けるだろう。
いつしか霧も消えようとしていた。空には幾条もの薄桃色の雲が層をなし、バラの花々はいっそう上気したように、暁の光の中で白く柔らかく照り輝いた。

「僕たち、また会えるかな」
「会えるよ、もちろん。また会おう、この世界のどこかで、きっと。」

そのひとは、踵を返し、光の靄の中をゆっくりと歩んでゆく。
エドガーはその後ろ姿に慌てて叫んだ。
「ねえ。…僕、まだあなたの名前を聞いてなかった」
栗色の瞳が振り返り、微笑んだ。

「私は、リオ。……もしくはミリオ、と」

日が昇る。眩い黄金色の光が、遠ざかる彼女の輪郭をゆっくりと溶かしていく。エドガーは再び呼びかけた。
「あなたの旅が、良い旅になりますよう」
人影が、大きく手を振った。

彼女の姿が朝日の黄金の光の中に溶けて消え去るまで、エドガーはその姿をいつまでも見つめ続けていた。


              (完)

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