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おまえが思っているほど、おまえはたいしたやつじゃない。

ほぼ日が開催している「ほぼ日の塾」第4期。
その最後の授業が終わった翌日、
たまたま、つげ義春の『紅い花』文庫版に収録されている、
糸井重里さんのエッセイを読んだ。

その冒頭には、このように書かれている。————————————————————————————————
「おまえが思ってるほど、おまえはたいしたやつじゃない」。
この、何もかもをぶちこわしにしてくれるような最後のひと言を、
いまは誰も口にしなくなった。
幸いだったのか、不幸だったのか、いまもよくわからないのだが、
私自身を前に後に、右に左に動かした力は、いつでも
「おまえが思ってるほど、おまえはたいしたやつじゃない」
というコトバのかたちをしていたように思う。

(中略)

倒れてほしいのだ。バタバタと倒れて、そして起きあがってくる姿を、
私は見たいのである。
ちょうどいい幸福、軽い名誉、弱々しい敬意やほどほどの嫉妬の視線などを
みんな犬にでもくれてやって、
「とぼとぼ」とひとりで歩きはじめてくれることを、
昔の若者である私は願っているのである。————————————————————————————————

そのまま「ほぼ日の塾」に当てはめるのは安易かもしれないけれど、
僕には、糸井さんのこの言葉が、「ほぼ日の塾」講師である永田さんの、
塾生への想いのように感じられた。

「ほぼ日の塾」では、塾生が提出した課題に対して、
永田さんは、塾生40人一人ひとりに対して、フィードバックをくださる。
その容赦なく、完膚なきまでに叩き潰されることから、
塾生の間では「恐怖の永田メール」と呼ばれている。

永田さんは、この「恐怖の永田メール」こそが、
「ほぼ日の塾の中核にあるプロセス」だと仰っていた。
全力で書いたものに対して、マイナス点を淡々と挙げるという、
このやり取りそのものに、永田さんのメッセージが込められていたのだと、
あの数ヶ月を振り返ってみて、いま、あらためて実感している。

・「恐怖の永田メール」というプロセスについて。

僕は、「ほぼ日で書きたい!」という想いを持って
「ほぼ日の塾」に応募し、
課題では、これまでの集大成を出そう
という気持ちで取り組んだ。
それはきっと、他の塾生も同様だったと思う。

そうして完成した課題は、
書きあがったときの満足感を少なからず与えてくれる。
そして、課題が公開されると
友人や会社の同僚たちは大げさなぐらいに褒めてくれて、
それもまた、僕を良い気分にさせてくれた。

いま思えば、高倍率の選考を通過しただけで、
何かを成し遂げたような達成感に浸っていたような気もする。

そこに、はじめて恐怖の永田メールが届く。
具体的に、的確に、コテンパンに、
全力を注いだ原稿であることを承知した上で
「それは読者には関係ないよ」と諭し、
淡々と、マイナス点を指摘してくれるのだ。

そこで初めて、
自分の思い上がりを自覚し、
未熟な自分とフラットに向き合うことができたのだと思う。
たぶん、通りすがりの読者に同じような指摘をされたら、
素直に聞けなかった部分もあったかもしれない。

だけど、
永田さんは、40人全員の原稿を読み込み、
その内容はもちろん、
一人ひとりの傾向や、原稿を書いた意図までを細かく理解し、
授業ではメモも見ずに全員の原稿の細かい箇所に言及していた。

そこまで本気で向き合ってくれている永田さんの姿勢は、
「どうしてこんなことができるんだ!?」という驚きがあり、
「この人から少しでも多くのことを学びたい」と強く感じさせるには
十二分の説得力があったと思う。

そうして、フィードバックの内容は
スッと自分の中に収まり、
「恐怖の永田メール」を読み終わったとき、
「次こそは!」という想いが湧き上がった。
まさに、永田さんの、熱意ある「おまえはたいしたやつじゃない」に、
甘く未熟な私が、動かされたのだと思う。

永田さんは最終日の挨拶でも
「友達からの良い評価は何の意味もない」
と、はっきりと言った。

冒頭の糸井さんの言葉を借りれば、
そうした、気分良くさせてくれる「ちょうどいい幸福」は、
自分自身をつき動かす力がないからなのだと、いまなら分かる。

「恐怖の永田メール」をはじめとする永田さんの姿勢により、
次こそは! 次こそは! と、
自分自身が前に後に、右に左に、つき動かされた。

そうした経験と実感が、「ほぼ日の塾」で得た
最大の宝なのではないかと思っている。


・道は続いている。

最後の課題のフィードバックをいただいたとき、
「書き直したい!」という思いに駆られた。

最後の「恐怖の永田メール」が配信された夜、
永田さんはツイッターを更新し、
そんな私の甘っちょろい考えを見抜いたように、こうツイートした。

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もうそれにさわれないときに「こうすればよかった」と悔やんでも意味がない。さわれるときは急ぐときだから、直すことと進むことは必ずせめぎ合う。でも、それが「本当にできているか」と判断することこそ、つくる意味なんじゃないかと思う。自分が自分を振り切らないとそれはそのまま世に出てしまう。————————————————————————————————

今回の反省や悔しさは、
次回、新たな原稿に向かうときの糧にするしかないという、
当たり前で大切なことを痛感し、自分の認識の甘さが恥ずかしくなった。

結局、「自分が自分を振り切る」まで出し切らなかったから、
「書き直そう」なんて甘い考えが出てきたんじゃないかと思う。

入稿することの責任の大きさや、「さわれなくなる」ことの重大さも、
実際に世の中に公開されるという、実践形式だからこそ学べたことだ。

この、永田さんのツイートを読んだとき、
「道は続いている」という言葉が浮かんだ。

「ほぼ日の塾」は、僕にとって
大きなターニングポイントにはなったが、
集大成ではなく、ましてやゴールにしてはダメなのだと思う。

ここからが書き手、作り手としての本当のスタートなのだと、
はっきりと自覚した。

「おれはたいしたやつじゃない」
「まだなにも成し遂げていない」
そんな言葉を原動力に歩き始めたいと、強く思った。

「まだまだやることだらけだな。」「何からやろう。」
というワクワク感も、「ほぼ日の塾」で得た大きな財産だと思っている。

「ほぼ日の塾」を卒業してから、1年近くがたった今も、
僕はその財産を持って、とぼとぼと歩いている。
僕が思っているほど僕はたいしたやつじゃないことも、
だからこそできることがたくさんあることも、
もう僕は知っているのだ。


長くなりましたが、
「ほぼ日の塾」第5期の応募締め切りは、
11月12日です。
人生の中で、ほんとうに特別な時間になると思います。
少しでも興味を持った方、ぜひ下記URLをクリック。
一緒に、とぼとぼと、歩きはじめませんか。
https://www.1101.com/juku/


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