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”キャラクターもテーマも失った”シャニマス2nd,3rdライブ〜2次元オタクからみた1stとの明暗〜

1stライブやプロデューサー感謝祭と比べ、2nd3rdではキャラクターやテーマが失われ、ただの声優ライブになってしまった。1stや感謝祭と比較して2nd3rdに何が足りなかったのかを、「2次元キャラクターオタクの視点」でクリティカル(批判的)に考える。ライブパートの声優のパフォーマンスは批判せず、テーマや構成などの大きな粒度で考察する。

テーマのある1stと一切ない2nd3rd

1stは文句なしに最高のライブであり、2次元コンテンツ・ライブのお手本だと思う。1stを手放しで絶賛する理由は次のようになる。

(1)キャラクターの情報が随所に盛り込まれ、2次元コンテンツのライブであることが明白である
(1-1)オープニング映像に新規イラストを使用
(1-2)ライブ途中で挟まれる新規書き下ろしの台本劇
(1-3)アンコール前の2Dモデルを使ったキャラの寸劇
(2)「シャイニーカラーズにとって初めてのライブ」というライブのテーマが明確にある
(2-1)1stライブと連動する物語がゲーム内にある(Catch the shiny tail、1stLIVEメモリアルコミュ)
(2-2)ライブ開演前のBGMがゲーム内BGMであるなど、「まるでユーザーがゲーム内にいるかのような」体験ができる
(2-3)MCでは、ユニットのテーマやコンセプトについて声優自身の言葉で紹介される
(2-4)アンコール後のMCでは、声優がキャラとの出会いや作品のオーディションについて回想したり、「シャイニーカラーズ」という作品やプロジェクトについて当事者意識を持って語っている

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要は、2ndと3rdはこれらができていないというシンプルな結論である。2nd,3rdは、

(1)ライブのテーマが一切存在しない
(2)キャラクターに関する情報が全くない
ので、二次元コンテンツのライブではない「ただの声優ライブ」になっている

のである。テーマがキャラクター性が一切ないからこそ、3rd6公演の75%が同じ曲であるコピペセットリストと、1stのように作品については語らず昼飯に何を食べたかなどの雑談MCになってしまったのだと思う。記事の主張も、先に書いておく。

・キャラクターを声優の演技だけから感じることは個人の能力に依存するので、共通認識にはならない
・声優をコンテンツの主要部分にすると、時間の経過と共にファンは離れていく
→声優の容姿にしか関心がない層はより若いコンテンツへ、キャラが好きなオタクはよりキャラを重視するコンテンツへ回遊するから
・ライブ後にSNSに溢れているライブ中のキャラのイラストから察するに、キャラを求めているファンは多いのではないか

以上のことから、キャラクターを軽視したライブでは競合作品と戦えないし、作品の独自性や魅力も失われるだろう

あらかじめ断っておくが、「ほぼ同じセトリでも毎回声優の成長を見れた」「キャラを感じれたし大切にされていた」「声優はキャラを演じるよう努力していた」など、共通認識として持てない個人の感想で反論するのは不適切だ。この記事で語っているのは、共通認識になりうる「定量的な構成(やった/やらなかった)」だからだ。

「キャラクターを大切にしていない=キャラクターについての出し物(台本劇や寸劇)、新規イラストがない」という主張がこの記事の本題なので、反論したいのであれば、定性ではなく定量で反論して欲しい。

2nd3rdは二次元コンテンツのライブをやらなかった

2nd3rdはシャイニーカラーズのライブではなかった。シャニマスの声優が出て、シャニマスの楽曲を歌ったのだからシャニマスのライブなんだというが、果たしてそうだろうか。

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キャラクターはどこにいってしまったのだろう?最大の違和感がこれだ。声優が歌って踊るだけのライブで、果たして2次元コンテンツのライブと言えるのだろうか?楽曲さえ同じであれば、それが二次元キャラクターコンテンツのライブといえるのだろうか?キャラクターがいるからこそ、二次元コンテンツなのではないか。二次元コンテンツからキャラクターを取り除けば、ただの声優コンテンツだ。だから2nd3rdはただの声優ライブだったのだ。

声優からキャラを感じる能力は個人に依存する

2nd3rdを「アイマス最高」と評価している記事は、noteやはてなブログを探せば山のように出てくる(批判しているのはこの記事ぐらいだろう)。それらはどれも内容が同じで、「あのシーンは声優が黛冬優子だった」とか「樋口円香がその場にいた」という感想ばかりだ。それは各々にとっては素晴らしい価値あるものだが、これらのイメージが共通認識になることはない。声優のどの表情がキャラらしかったかは、極めて個人的な感想だからだ。

「冬優子が一生懸命頑張っているのをお前は見れなかったのか」「何を見ていたのだ」と言われても、共通認識として持てないキャラにしか関心がないオタクからすれば、歌っているのはどこまでも声優でしかないからだ。特に、台本劇や寸劇、スクリーンでキャラのアニメーションを流されるなどしないと、「キャラクターのコンテンツ」だと実感できない。全員が同じようにキャラと声優を同一視したり、声優が歌っている=キャラが歌っていると思うわけではない

では、個人的な感想ではなく共通認識たりうる要素とは何か?2次元コンテンツであることや、キャラの存在感をできるだけ多くの人に感じさせたいのなら、キャラクターの動画やイラストを使って視覚的に訴えたり、台本劇や寸劇などで聴覚に訴えることが手っ取り早い。たとえば1stのアンコール前に行われた2Dキャラによる寸劇・台本劇で喋っているのは声優ではなくキャラたちだ。たとえ幼児だろうが、イラストが使われていれば生身の人間ではないとわかる。

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キャラクターの新規絵をライブで使うべきだった

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シャニ1stでは描き下ろしの新規イラストと共に演者が登場し、視覚的にキャラクターを強調しているライブだった。オープニング映像に至ってはキャスト名よりキャラ名の方が文字が大きいことからも、キャラを大切に扱っていることが窺える。

しかし2ndと3rdでは描き下ろしの新規絵がライブで使われることはなく、視覚的にキャラが強調されていない。開幕オープニングの映像にはWindowsデスクトップPCのスリープモードのような無機質な映像が流れるが、あれだけを見た人が「これがシャニマスのライブだ」とはわからないだろう。同じ作品のライブでも、オープニングからして全く違う。事後物販で記念として出すのではなく、シーズが揃ってなくても名古屋公演から新規絵をライブで前面に押し出すべきだったように思う。

声優の雑談と化したMC

1stでは、最初のライブということで、各ユニットの声優がそれぞれユニットのコンセプトについて自己紹介している。アンコール後のMCでは、1年間作品に携わってきてどう思ったか、オーディション時の自身が演じるキャラとの出会いなど、「シャイニーカラーズというプロジェクトに携わってきてどう思ったか、これからどのように作品にコミットするのか」について一人一人が自分の言葉で語っている

しかし2nd3rdのほとんどのMCでは、作品とは無関係の声優の雑談と苦労話を長々と聞かされる。特に3rd終盤の「1曲やってMC」の3連打は最悪の時間帯だ。まともにキャラクターや作品について言及するのは、ソロ曲後のMCやライブ最後のMCぐらいだろう。昼飯に何を食べたか、ダンスの練習でどれだけ成長したかなど、作品に関係ない声優個人の話は声優のソロイベントで好きなだけやればいい。

キャラが喋る台本劇や寸劇などはキャラを感じさせる出し物だが、作品とはなんの関係もない「声優がライブ前に何を食べたかの話」を聞いてどうやってキャラに重ねろというのか?土台無理な話である。

1stでは、声優達はあれほどシャイニーカラーズというプロジェクトについて自分の言葉で語っていたのに、なぜ2nd3rdではできなかったのか?答えは簡単で、2nd3rdにはライブのコンセプトやテーマがないからである。MUSIC DAWNのMCでは、楽曲の裏話や声優が楽曲についてどう思ってるかなど、「音楽の夜明け」というテーマらしく、楽曲についてインタビュー形式で語られている。今回のライブよりよっぽど充実したMCだったと思う。

たとえば、「遊園地」というテーマがあるなら、キャラのコミュからキーワードに紐づく話を引用できただろう。コンセプトがあるのなら、1stのようにそれに沿った形で「キャラのライブ前日までの準備」について描けただろう。2nd3rdはそれらができていない。

共通認識にならない演出と定量評価できる出し物

「このライブのテーマやコンセプトは何で、ライブで具体的にどのように落とし込まれていたか」について説明できる人は是非して欲しい。くれぐれも、「ライブの光の演出が惑星っぽかった」みたいな小学生並みの感想で説明できたとは思わないで欲しい。

細部の演出をどう感じたかは個人の尺度で、共有できないからだ。この記事では一貫して、「台本劇などキャラを扱った出し物があったか」「『シャイニーカラーズ初めてのライブ』などのコンセプトが、イベントで反映できていたか」など、0(FALSE)か1(TRUE)の定量で話している。台本劇や寸劇をやったのが1st・感謝祭で、やらなかったのが2nd3rd。新規絵や書き下ろしゲーム内コミュを使ったのが1stで使わなかったのが2nd3rdだ。

「あの声優のあの表情は間違いなく黛冬優子だった」「あの泡の演出は『ゆらゆらアクアリム』だった」というのは個人の感想であり、尊重されるものだが共通認識にはならない。共通認識として持てるのは「やったかやらないか」「存在したか否か」やセットリストといった定量で、客観的に評価が可能な指標だけだ。

セットリストについて重点的に言及した別記事で書いたが、今回のツアーをソロアルバムのユニットごとに分類したのであれば、ある程度テーマは担保できたと思う。3つのユニットは適当に選ばれたわけではないのだから、ユニットごとの台本劇や寸劇があればキャラが好きなオタクからすれば垂涎ものだっただろう。各公演ごとにしか見れないのだし、公演ごとの希少価値もついたはずだ。

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しかし、1stで行われたライブ限定の書き下ろしコミュ(台本劇や寸劇)なども全て捨て去られた。これらは、キャラが好きな人からすれば垂涎ものであり、キャラクターの存在感・実在性を感じられる。しかし1stの時点で、「台本劇なんかゴミだ、もっと声優の腋や肌を見せろ」と声優の容姿にしか関心がない人たちがキャラの要素を否定したから、運営はその意見を受け入れたのだろうか?結果的に、今回のライブではキャラは失われてしまった。

台本を読んでキャラクターを演じる行為は、まさに声の演技のプロフェッショナルである声優が輝く部分だと思う。彼女らは単なるアイドルではない。アイドル声優かもしれないが、それ以前に声優だ。声優が声優としての技術を発揮できる出し物をわざわざ捨て去って、容姿だけを見せびらかす構成・演出にする理由がわからない。声優の最も根幹たる「声で演技する行為」にさえ無関心である声優の容姿にしか関心がない人たちは、本当に声優が好きなのかすら疑わしい。

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声優が魅力の大部分を占めるコンテンツは廃れる

1stは、キャラクターを大切にしつつテーマもしっかり存在した本当に素晴らしいライブだった。しかし2nd3rdは、声優からキャラを感じとるという極めて曖昧で個人の能力に依存したライブだった。「声優をキャラクターと同一視する特殊能力」は人によってまちまちだ。私の場合は、台本劇や寸劇などの手助けがなければ発動できない。

寸劇や台本劇などは、議論の余地などなくキャラクター要素である。それらをライブで盛り込めば、ただの声優ライブではない「キャラクターを大切にした二次元コンテンツのライブ」になったし、それを求めたユーザーにとっては最高の体験になった。1stや感謝祭ではそれらができている。だが2nd3rdはそれらを捨て去り、他の作品のようなありきたりなただの声優ライブに舵を切る道を選んだ

断言するが、声優だけが好きな人や声優の容姿にしか関心のない人たちはいずれ、より若く美しく可愛い声優のいるコンテンツに回遊する。声優の外見は時間が経てば若くなくなるからで、それはアイドルも同じだ。だからこそ、アイドルは若い頃しかできない。しかしキャラクターは、絵師が変わったりコミュの質が下がるなどを除いて、外見的に劣化したり魅力が落ちたりしない。これは2次元アイドルの強みの1つと言えるだろう。

キャラクターこそが作品にとっての独自性たり得る

2nd3rdの終演後、Twitterにはキャラがライブをしているたくさんのイラストが投稿された。声優をそのまま絵に描けばいいものを、声優のイラストではなくわざわざキャラに置き換えたイラストがたくさん投稿された

自分は、声優ライブに行く人のほとんどは、キャラではなく声優を楽しみにライブに行っていると思っていた。だが、少なくともこの現象を観察していると、無自覚かどうかはさておき、大衆はキャラを求めてライブに行っているのではないかと思った。キャラが好きで、キャラクターコンテンツのライブを求める人がそれなりにいるのなら、1stのようなキャラを感じさせるライブにするべきではないのだろうか。

声優はシャニマス以外の作品にも参加している。声優だけを求めてライブに参加する人たちにとっては、シャニマスのライブである必要性はない。シャニマスに限らず、声優はさまざまな作品を横断しているので、作品の唯一無二の要素ではない。また、長期的な視点で考えると、昨今量産されているリメイクアニメをみるに、コンテンツの年月が経過すれば声優は容易に変更される。このことからも、ほとんどの場合、声優はコンテンツの独自性にならないし、声優の成長はコンテンツに還元されないことがわかる。

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しかしキャラクターは違う。たとえば恋鐘の声優はプロセカにいるが、月岡恋鐘はプロセカにはいない。恋鐘のコミュはシャニマスでしか見れないし、他の作品では恋鐘に触れられない。キャラクターこそが作品にとっての独自性であり、声優が独自性になり得ることは決してない。だからこそ、「他作品では替えの効かないキャラクター」を重視した、独自性を全面に出したライブにするべきだと思う。

競合に勝てるライブにするにはどうすればいいのか

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1stでは、ゲーム内に現実の1stライブと連動するイベントストーリーを用意して、1stのためにわざわざミニコミュまで用意して、ゲーム内と現実(リアル)ライブがリンクしていた。「オペレーション・サンタ!~包囲せよ283プロ~」で合同ライブについて言及し、「Catch the shiny tail」で合同ライブに対する真乃の葛藤と成長を描き切った。

このようにゲーム内で用意周到に準備された状態でライブを見るからこそ、キャラクターや作品を感じる最高峰のユーザ体験になった。あれほどのユーザ体験は今後の人生でそう何回もできるものではないと思う。そんな1stと違って、2nd3rdにはそういった連動は一切ない。強いて言うなら、3rdの公演前にキャラクターに差し入れできたことぐらいしかキャラ要素はなかった。

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キャラクターを重視せず、大衆にウケる目先の利益ばかり追求する姿勢では、より盛り上がるコンテンツのライブが現れたときに客はそちらに流れるだろう。シャニマスには盛り上がる曲もあるが、聴かせるタイプのしっとりした曲も少なくない。だから、盛り上がりだけを重視するライブでは競合とは戦えないと思う。

「とりあえず大人気の『Dye the sky.』を締めにやれば『アイマス最高』と全部許されるだろう」みたいな安易な考えは捨てるべきだ。より騒いで盛り上がれるライブと戦うためにはどうすればいいか。キャラクターを大事にしたライブをやればいい。そうすれば声優の外見が若くなくなっても、他のライブに流されないだろう。キャラが好きな人は残り続けるからだ。

ライブがコンテンツの中で重要になっている昨今

キャラクターのオタクからすれば、ライブは所詮原作ゲームのおまけで最重要のものではないが、大衆にとってはそうではない。ライブでは自分の生身でコンテンツを体験できるし、ライブでアニメ化などの重大発表をババーンとやるコンテンツもたくさんあるからだ。もはやキャラクターやゲームなどどうでもよくて、ライブがコンテンツの中で一番大切と考える人さえいる。ライブがなければしばらくコンテンツの動きはないと考える人たちだ。

こちらのブログは、2nd前に公開され反響を呼んだ。「シャニマスの運営が、ファンを『ライブさえ供給しておけば課金する財布』だと思っている」と訴えており、当時のシャニマスの問題などに言及しているからだ。

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だがこの人も、2ndが終わった後にこのように綺麗に「アイマス最高」と運営に調教されているので、このブログには何の説得力もない。この即落ち2コマ感、最高である。この人自身が、「私はライブさえ供給されればコンテンツへの不満も綺麗さっぱり吹っ飛ぶ信者です」と示しているからだ。”最高のライブ”とやらのあと、彼は批判的な意見を一切言わなくなった。

「これ進研ゼミで100回見た」という感想しかないし、この人は典型的なアイマス信者なのだとしか思わない。ポイントは、コンテンツの問題についてブログで発信する人間でさえ、ライブを供給されればHPを回復したかのように「アイマス最高」となるのがこの界隈の人たちということだ。

この人たちにとっては、ライブが最も重要でゲーム内の新イベントが実装されても「コンテンツの活動がない」と思うのだろう。そんな人たちにとって何よりも重要なライブは、魅力的でなければならない。6公演のうち75%が同じ曲の、信者以外絶賛しないセットリストではなく、「シャニマスのライブでしか体験できない」と思える最高峰のユーザー体験をさせるべきだ。1stや感謝祭ではそれができていた。

だが2nd3rdで綺麗に捨て去られてしまったことからも、「1stでは楽曲数が少なすぎたので尺稼ぎのためにやった」という仮説は、今となってはおそらくそうなのだろう。とても残念だが、1stでやった理由がしかたなくだったとしても、上手くいったものは受け継いでいくべきだと思う。

台本劇や寸劇を毎回やれとは言わないが、キャラクターを視覚的・聴覚で訴えるコンテンツをライブに盛り込むべきだ。でなければファンはよりライブの素敵なコンテンツに流れてしまう。その理由が盛り上がれる曲が多いからなのか、より若く美しい声優が多くいるからなのかはわからないが。

以前のようにキャラを大切にしたライブを願う

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繰り返しになるが、コンテンツにとって替えが効かないのは声優ではなくキャラクターだ。キャラが好きなら、そのコンテンツから離れるのは難しいだろう。キャラが好きなオタクはキャラが登場する原作ゲームに課金するし、キャラのグッズも買う。声優の容姿以外に関心がないオタクは、CDとライブにはお金を出すがキャラにはお金は出さない

声優の容姿にしか関心のないオタクは、キャラクターには一切関心がない。声優が若くなくなり、彼らにとって魅力がなくなれば、声優がより若く美しいコンテンツに逃げる。キャラクターを軽視したライブには、キャラクターが好きなオタクは魅力を感じないだろう。キャラクターが好きなオタクは、声優が老化しようが関係なくコンテンツにとどまるだろう。だってキャラクターが好きなのだから。最後に断言する。

声優だけを前面に出したライブは、人気があるときはその場しのぎ的に誤魔化せるかもしれないが、いずれは声優だけのオタクもキャラが好きなオタクも両方離れていく。どちらを取るかであれば、キャラクターだ。なぜならシャニマスは2次元コンテンツで、キャラクターへの需要こそコンテンツにとって長期的に還元されるからだ。キャラクターを軽視するライブでは競合に勝てないし、そのコンテンツに未来はない。

本記事で使用されているゲーム内画像、動画は©︎BANDAI NAMCO Entertainment Inc.
また、一部画像はファミ通.comなどから引用

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主にセットリストの杜撰さについて言及したもの。


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