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エゴの引力

以前の私は、とても近視眼的で。

気になることがあると、どんどん深堀りして、細部へ細部へと入り込んでゆく傾向がありました。

人と話をしている最中でも相手の言葉の中に気になることを見付けると、話の流れには着いて行かず、つい気になることを掘ってしまう。

気付いてみると深く入り込みすぎて、自分がいまどこにいるのか、分からなくなってしまうこともしばしばでした。

けれど、まる二年に及ぶカウンセリングを通して、ものごとの全体像をとらえる練習をしてきて。

最近ではだいぶ、俯瞰する目が持ててきているのを感じます。

何かを視界にとらえようとするとき、見たいものに近付いてゆくのか、それとも遠ざかるのか?

これって、ものごとのとらえかたのクセのようなものだけれど。

「近視眼的」という言葉どおり、カウンセリングを受ける前の私の視点には、大局的なものの見かたは存在していませんでした。

これって、どの倍率のメガネを通して世界を見るのかを、選ぶようなもので。

たとえば自分と仲のいい友だちの、二人にしかピントの合わないメガネを選んだとしたら。

自分の望む世界をつくるためには、どうしたってその友だちに対し、自分の望むとおりの動きをしてもらいたくなるもんです。

さらに、かつての私のように、ひとつのものごとに対してどんどんズームアップをしてゆくと。

望む世界をつくるため、こんどは「こういう自分でいなくちゃいけない」といった、自分への縛りのようなものをつくり上げてしまう…。

気付きましたか?

そう、これこそが「エゴ」なんです。

人を自分の望むとおりに動かそうとするのもエゴなら、「こういう自分でいなきゃいけない」という自己像をつくり上げてしまうのもエゴ。

これにハマると、人はどんどん、身動きが取れなくなっていきます。

やりたいことをすることができない私ができてしまったのも、このエゴのせい。

じゃ、どうしたらこの「エゴの引力」から、自由になれるのでしょう?

逆に、見たいものから距離を取ることです。

たとえばこの社会の中で、私が作家として生きていきたいとするならば。

どんな作品を書けばいいかと、倍率の高いメガネを掛けるのではなく、むしろ広角レンズのメガネを掛けて全体像に意識を向ける。

そうすれば世の中は雑多で脈絡のないニーズで溢れ返っていて、あらゆる人から好かれる作品なんて、書けるはずがないということが自然と理解できてくる。

さらに理解が進んでいくと「だったら自分の書きたいことを書こう」といった、自身の内側に向いたベクトルの思考が出てくるはずなんです。

だって二人と同じ人のいない、雑多な世界で私たち、生きているわけですから。

目指すものを自分の外側に求めることのほうが、そもそも無理筋なんだと、感じ取ることができるでしょ?

そうやって私たち、外側の世界にとらわれることなく、ありのままの自分でいられるようになるわけです。

なので「かくあるべし」に満たされてしまっている人は、見たいものからあえて、遠ざかってみてください。

全体像が目に入ってくれば、自分がずっとこだわってきたことが、きっとバカらしく感じられるはずです。

ホームページをつくったので、ぜひ、見てみてください。

naotadano.com

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それでは、良い一日をお過ごしください。





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