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私に起きた錯覚

昨日upしたのを書いてて、やっと腑に落ちた。

スピリチュアル関連の人が、どうしてみな、同じような表現のしかたをするのか?

インスピレーションを、言葉や映像として表現するのか?

それがいちばん伝わりやすいし、書いてるほうとしてもラクだからだ。

私たち、五感までしか持ってないことになってるから、それを前提として書かなきゃいけないし、ね。

でも、私の場合はそこで、錯覚が起きた。

五感の中の、いずれかに下りてくるものだ、という錯覚にとらわれ。

その中で、とらえようとしてしまった。

でもね、インスピレーションを受け取るのは、五感じゃない。

“見る”は「目」、“聞く”は「耳」といった、特定の器官もない。

私自身、どこで受け取っているのか、さっぱり分らない。

そして、受け取りかたはどうやら、人によって様々らしい。

私の場合は過程をすっ飛ばして、“理解”として下りてくるのだけれど。

そうじゃない人も、いるみたいで。

つまり、受け取りかたなんて、どうだっていいんだよね。

問題は、下りてきたものを受け取れるかどうか。

「気のせい」と、切って捨てるのではなく。

「まさかねぇ」と、疑うのではなく。

しっかり、受け取ること。

そして、受け取ったことを、“現実”なるものに生かしてゆくこと。

どうやら、ね。

起きたものごとに対する“受け取りかたの歪み”や、“反射的な反応”は、ゲームの最初に背負わされるハンデみたいなもので。

それを克服して、本来の自分へと戻ってゆくことが、私たちがやってるゲームの真相らしい。

それ、多くの人がもうすでに、言ってるでしょ。

でも、私も、いろんなものがジャマして。

素直に、ありのままに、受け取ることができなかった。

“言葉”という範囲内で、そのものズバリ、言ってくれてるのに。

なかなか、受け取ることができない。

まぁ、外からどれだけ言っても、結局ダメなんだよね。

自分の中で、自分だけのインスピレーションを受け取ってみてはじめて「ああ、あの人が言ってたのはこのことだったのかぁ」って気付けるの。

本当に、外からできるのはそれだけ、なんだねぇ…。

よく、分りました。

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